壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
    HOME / 「壊れやすい天使」TOP



1-06


  ******************************************************


 焼け落ちたビルの残骸に囲まれた、古い八階建てのビルがあった。
 すっかり数を減らした黒い天使達は、狂気と絶望を抱えて、そこでひっそりと暮らしていた。とはいえ、もはや望みを失い、自由を満喫する場も失った彼らは、自らの長い命をその手で絶つ者も多く、完全な絶滅も間近と思われていた。
 まだ歳若いその天使も、何度も自ら死を選ぶことを考えた。それがきっと、一番楽な方法だ。
 だが、その度に脳裏に蘇るのは、自分と似た面差しの少女天使が、たぶん、今まで一度も浮かべたことのない真剣な目で、
「あんたは、死なないでよ」
 と、最早助からないと悟った死の間際に遺した言葉だった。
 ただ、同じ女天使の腹の中から、続けざまに産み落とされたというだけで、特に親しい間柄でもなかった。それでも、彼女の願いを汲んで、止めを刺してやったのは自分だ。
 残り少ない黒い天使の一人、フィム・緑守(ロクシュ)は、最近では、あれは呪いの一種だったのかもしれないと思うようになっていた。

 少女が卵を拾ってから三日後の午後、フィムは、灰色のビルの六階にある殺風景な一室で、一人、ため息をついた。
 剥きだしの壁は黒ずんで、断末魔の顔のような斑模様が浮かびあがっている。天井には、黒いひび割れが幾筋も走り、その一隅は既に崩れて、破片が床に積もっていた。垂れ下がった腸のようなコードが、天井の中央に据えられた四角いパネル照明に繋がり、頼りなげな光が、今も奇跡のように灯されていた。重い鉄製の玄関ドアから見て右側に、少し傾いたシングルベッドが一つ、正面には何年、何十年もの間磨かれたことのないような、灰色の窓ガラスの嵌め込まれた窓がある。
 フィムは、ベッドの反対側に置かれた、焦げ茶色の三人掛けのソファに腰をおろし、擦り切れて剥がれたカーペットの、もつれた繊維の切れ端を眺めながら、無意識の内にまた、ため息をついていた。ソファの真ん中は、座るとグズグズと床までめりこみそうになることは、最初に座った時に確かめていた。だから、一番しっかりしている玄関側の端に座っている。それでも、このソファがただの飾り物になるのは、時間の問題だろう。
 もう、あの日から何度目になるだろう。死んでいったキリカという名の少女天使の記憶で、自らの命を絶つ手を寸前で止めるのは。
 言葉を交わしたことだって、数えるほどしかなかった。そんな相手の言葉一つで、絶望しか残っていない時間を生きていくなんて、あまりにバカバカしい。約束なんてできないと言ったら、彼女も言ってみただけだと言った。それなのに。
 あの日、ルーダがシェラと抱き合って死んでいたと聞かされたあの日。狩人の塔が炎上し、数多の天使が息絶えたあの日。
 本当は、あの日に自分も死んでいたはずなのに。
(もう、生きてたってしょうがないって、思ったのにさ)
 キリカの言葉で生き永らえて、それで結局どうなるというのか。
(ルーダは……もういないのに)
 いたとしても、自分を振り向いてくれることなど、この先ずっとなかったかもしれない。
 それでも、もしかしたら、万に一つでも、と、一縷の望みを捨てきれずにいた未練がましい自分が、大嫌いだったはずなのに。
 今もまだ、自分はこの望みを失った世界で、ただ漫然と生きている。今のこの状態が、真に生きているといえるのなら、だけれど。
(やっぱりもう、死んじゃおうかな)
 キリカの面影がなにを語りかけてこようと、自分の中の、決して名付けたくはない感情が揺さぶられようと。
 フィムはソファを軋らせながら立ち上がった。腰に黒い弓はない。狩人として、数え切れないほどの卵人の、そして天使の命を奪ってきた黒い短弓は、腐りかけたクローゼットの中に放り込まれたままだ。あの日以来、狩人としての自分も、炎上する塔と共に燃え尽きてしまったようだった。燃え尽きて灰にしたかったのは、ルーダへの想いや、ルーダやシェラから受ける自分の苦悩の方だったのに、それは今も時折、胸を重く塞ぎ、どうすることもできない痛みでフィムを刺した。
 だが、今、フィムは何年ぶりかに、ベッドの右側、鉄の扉に近い壁に据えられた朽木色のクローゼットに歩みよった。持ち手は既になくなっていたが、腐り落ちてできた扉の隙間に手をかけて、それを手前に引いた。と、ボロボロと紙屑のように木片が崩れ落ち、手をかけた部分がすっぽりと穴を開けた。扉は、溶けたようにへばりついたまま、開こうとしなかった。
 フィムは、ぽっかりと開いた黒い虚ろの穴に手を突っ込み、扉を開けずに、そのまま中から自分の弓を引っ張りだした。弓がひっかかって、また扉の穴が大きくなったが、太陽を知らないフィムの白い手に掴まれた狩人の弓は、今も鈍い光沢を放っていた。
 フィムは、暫くの間、黙って黒檀の弓を見つめた。これを再び手にすることを、今一度この弓に炎の矢をつがえることを、半ばないものと感じていた。
 フィムは、自分の持っているどの服にもついている、簡易式ボウホルダーのベルトのボタンを外すと、その持ち手の部分にくるりとベルトを回し、ボタンをパチリと留めた。
 久しぶりに感じる左腰の重さは、何故か胸を苦しくさせる。それが悲しみでも、懐かしさでも、そんなものは必要なかった。
 そしてフィムは、腰に黒い弓をぶら下げたまま、重い鉄製の扉を開けて、部屋をでて行った。


 終わりにするなら、それをどこで迎えようか。
 考えるともなしに考えながら、フィムは黒い天使達の隠れ家を離れ、昼尚暗い空の下を歩いていった。
 目の端で、キラキラと光の欠片のように輝くのは、金色の天使達。滅多に見かけない古い天使種族の少年に、全身を舐めまわすような好奇の視線を向けてきたが、フィムはそれを意識の外に追いやった。脳味噌と頭蓋骨の間に白いゼリーを満たして、外界からの情報を曖昧にするような感じだ。
 フィムは歩いた。どこに行こうか、答えを探すでもなく、その問いだけを頭の中で繰り返し、ただ歩いた。
 そして気づいた時、フィムはそこにいた。辿り着けば、それは当たり前だと思った。
 狩人の塔。
 全てはここで始まって、ここで終わった。
 あの日、巨大な松明となって空を焦がした五十九階建ての高層ビルは、鉄骨が歪み、崩れた床や壁で少し高さを失いはしたものの、今も暗い汚れた都市の中で、灰色の空を突き刺すように建っていた。
 中に入るのは危険だろう。今はかろうじて形を残している床や柱が、足を踏み入れた途端に崩れ落ちることは、充分に考えられる。下手に上階まで昇れば、崩れた床と共に真っ逆さまに落ちることだってあるだろう。
 だが、フィムは躊躇うことなく、洞穴のようにぽっかりとあいた入り口をくぐった。
 もともと、命を惜しんでここに来たわけではない。全部終わりにするのなら、自分の炎で身を焼こうと、上階から飛び降りようと、穴に落ちて墜落しようと、大して違いはないはずだ。
 吹き飛んで砕けたガラス扉の破片が、黒いブーツの底でジャリジャリと音をたてた。狩りの日、黒い狩人達で溢れかえっていた玄関ホールは、人気もなく、暗い。照明は壊れ、穴の開いた入り口からの薄い光しか明かりがないのだから当たり前だ。
 ホールの奥にあるエレベーターも、当然のように動かない。上階に行くには階段を使うしかなかった。
 階段へ通じる鉄製のドアは、ぐにゃりと半ばから歪んでいた。動かすことはできそうになかったが、大人一人、ギリギリ擦り抜けられるだけの隙間があった。フィムは歪んだ扉の隙間に体を滑りこませ、暗い階段に入り込んだ。
 階段は、ホールよりも埃と煤の臭いが鼻についた。空気が重い。
 明かりはなく、その階段が、どこまで続いているのかも定かではなかったが、フィムは、暗闇の中、ゆっくりと階段を昇り始めた。




   
         
 
<< BACK   NEXT >>