壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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「言ってきたよ、これでいいんだろう?」
 きらめく薄絹のドレスに、青ざめた色のオーガンジーのショールを身にまとった、濃い金髪の天使が、店の隅に座る、白いフード付マント姿の人影に声をかけ、目の前の椅子に流れるような動作で腰を下ろした。
 白に身を包んだその相手は、フードを目深にかぶったまま、かすかに頷いた。
「それでいい。面倒をかけたな」
 低めの静かな声は、男性体のもののようだった。だが、憂いを帯びたその声音に含まれた澄んだ透明感は、女天使のもののような感じもする。
「別に構わないさ。退屈で退屈で、ちょっとでもこの退屈を紛らわせてくれるなら、なんだっていいからね。ただ、卵人に声をかけるくらいならいいけど、あれを抱けと言われるのは遠慮するよ?」
 長めの前髪を白い指で掻きあげ、アイスブルーの瞳でその天使は微笑った。白の天使はそれには応えず、階下の薄暗い席に視線を落とした。
 埋もれたように並ぶ半地階の卵人用の席で、ただ一人腰掛けて、茫然と虚空を見つめたままの卵人の少女。肩より少し長い灰褐色の髪。光が当たれば銀色にも見える。
 少女の頭を見下ろして、白い天使は、フードの奥でわずかに目を細めた。
「で、今のは本当なの? ねぇ羅擬(ラギ)?」
 ふいに自分の名を呼ばれ、白に身を包んだその天使は、目の前に座る天使に視線を戻した。
「今の?」
「ぼくがあの卵人に言ったことさ。あの卵人がぼくらを殺す、ってヤツ」
「ああ、おそらくはな」
「それは先予見?」
「そうだな、そう言ってもいいだろうな」
 心を読む金色の天使達の中には、未来を予知する者もいた。彼らは、時間の心を読むのだという。白い色は、流れ行く時間の先を見通す力を持った天使達が、好んで身につける色だ。なにものにも染まることのない、まっさらな白さが、未来の描く模様を読み取りやすくするのだといわれている。
 ラギは、種族の滅亡を軽々しく口にする相手に、わずかに首を傾げて尋ねた。
「いずれにせよ、お前はそれに文句はないのだろう? 棄亜(キア)?」
 キアは、肩を竦めて、口許に皮肉っぽい笑みをうかべた。
「まぁね。こんな退屈にはうんざりだよ。卵人に殺される、なんて、告死天使のもたらす滅びよりも面白そうだしね。きっと、誰もそんなこと思ってもみないだろうね。あいつらになにかできるなんて、まさか、天使を殺せるほどの意志があるなんて、誰も信じやしないよ。消える時ぐらい、思ってもみなかったような刺激的な消え方、したいじゃないか?」
「ならば、今少し待つことだ。そう長くはない。彼等の命は我々に比べてはるかに短い。その灯の消える前に、約束の時は来る」
「そうだね、そのくらいなら待つよ。これから延々と、糞みたいに続く時間を持て余すことに比べたら、あと少しぐらい、ね」
 そう言ってキアは、グラスに半分ちかく残っていた赤い液体を飲み干し、チロリと蛇のように舌で唇を拭った。
「でも、待つ間の時をもうちょっと愉しく過ごすにはさ、やっぱり……ねぇ?」
 半透明のショールを、するりと肩から滑り落とし、誘うような視線をラギに投げかけて薄く微笑む。
 白い天使は、フードの奥で少し眉をあげただけで、なにも言わなかった。フードの陰になっているからだろうか、靄のかかった湖面のようなその眼に光はなく、なんの感情も現われていない。
 キアは、フッと諦めの吐息をついた。
「……やっぱり、相変わらずだよね。まぁ……いいケド? 白衣の先予見サマを誘惑できるなんて、本気で思ってたワケじゃないしね」
 滑り落としたショールを手で直し、苦笑めいた笑みを浮かべるキアに、ラギはなにも応えなかった。キアはわずかに肩を竦めると、気を取り直したように尋ねた。
「それはそうと、ラギ。あの卵人は、それを知ってんの? 自分が天使を、って」
「知らないのだろうな、今はまだ。だが、いずれわかる」
「ふうん?」
「そう、いずれ必ず」
 ここにはないなにかを見通しているかのような眼で、ラギは階下の少女を見下ろした。少女は丁度、ひどく億劫そうに立ち上がったところだった。
 ラギの霜のおりた氷のような視線を感じたのか、少女がふと、階上の天使達を見上げた。
 ラギは白いフードの奥で、一瞬、顔を強張らせた。その、翠緑の瞳が、ラギと少女を隔てる空間を貫いて、ラギの瞳を焼きでもしたかのように。
 だが、少女の瞳に力はなく、虚ろに眺め渡しただけで、少女はやがて軽く頭を振ると、憂鬱そうに俯いて、ざわめく店内を滑り抜けて外へ出て行った。
 無意識の内に止めていた息を吐きだし、ラギはフードの奥で目を伏せた。
 そんなラギを不思議そうに見つめ、キアは心の内で肩を竦めた。やっぱり、『白衣の先予見』ともなると、普通の天使とはかなり様子が違う。なにを考えてるのかさっぱりわからないけれど、退屈な日々には丁度いい刺激だ。
 もう少し、その予測不可能な刺激を受けていたかったキアは、テーブルに両手をついて立ち上がろうとしているラギを見て、名残を惜しむように眉をひそめた。
「もう帰っちゃうの? まだ夜も早いよ?」
「そうだな。その内に、またな」
「本当? 約束だよ」
 と、念押しするキアに頷くことなく、かるく片手を挙げて別れの挨拶に代えると、ラギは一匹の白い魚のように、込み合う店内を優美にすり抜けていった。その白い姿が色とりどりの波の向こうに消えるのを、キアはただ黙って見送った。
「約束、しないんだね。それも先予見?」
 ラギの姿が完全に見えなくなった頃、ポツリと呟いたキアの声は、誰の耳にも届くことはなかった。


 彼の身にまとう白衣に、それと気付いた天使達が囁き交わす声を意識することなく、ラギは光溢れる店内から、夜へと扉をくぐった。
 月もなく、星もない、厚い雲に覆われた夜。
 ラギは少し立ち止まって白いフードを更に目深にかぶり直すと、天使の居住地区ではなく、卵人達の居住地区へ足を向けた。
 行く手には、今しも更に暗い路地へと曲がらんとしている、モスグリーンのコートを着て、灰褐色の髪をした少女。
 ラギは少し足を速めて、少女の後を追った。
 少女の曲がった路地の手前で一旦立ち止まったラギは、そっと暗がりの向こうを窺った。相手は、よもや尾けられているなんて思ってもいないだろうが、気をつけるに越したことはない。
「!」
 覗き込んだ瞬間、ラギは息を飲んだ。
 思わず漏れそうになった呻き声を押し殺し、壁面に大きな亀裂の走るビルの陰に身を潜める。
 少女は、薄紅の天使の血に濡れた路地に膝をつき、白い、ひどく白い卵に手をかけていた。間近なダストボックスの側には、無残に噛み千切られ、引き裂かれた天使の屍。
 少女が、夢でもみているかのようにゆっくりと、天使の死体に顔を向ける。
 暫くの間、少女は黙って天使の屍を見つめていたが、やがて、再び白い卵に視線を戻し、そっと、ひどく慎重な手つきで、その卵を手に取った。
 フードの奥で、ラギは息を殺し、疼くような予感と共に少女の行動を見守っていた。
 両手に卵を乗せて、少女が立ち上がる。右手に持ち替え、左手でコートの中にくるみこみ、そして少女は、走りだした。
 暗く汚れた道に広がる天使の血だまりを踏み、その色で行く先を教えながら。
 自分が血飛沫をあげて走りだしたことも、血の色の道標を残しながら駆けていることも、おそらく気づいていないのだろう。
 だが、ラギはその全てを見ていた。
 少女が駆け去るのを見送ると、血の跡を追って、ラギは足早に歩きだした。
 夜の闇が深くなっていた。




   
         
 
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