壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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 産まれたての卵のぬくもりと輝きに、少女は急に、この卵を産んだはずの天使の所在が気になった。
 産みたての卵を置いて、どこかへ消えるはずがないのに。その胸の中に卵がないはずがないのに。こんな汚れた路地裏は、天使にもその卵にも似合わないのに。
 少女の疑問はすぐに、少し離れた場所にある、潰れて歪んだ金属製のダストボックスの側で、グチャグチャに引き裂かれた天使の死骸によって解決された。
 どれほど美しいたてがみの持ち主だったのだろう。どれほどの美貌だったのだろう。もうその面影を辿ることさえできそうにない。体中の肉の殆どは失われ、臓器の一部が引きずったような痕を残して、少し離れた位置に落ちていた。顔も、頬の肉はごっそり失われて、その下の骨まで見える。天使の、濃淡の違いはあっても、一様に青い瞳は、瞼ごと噛みちぎられたかのように、ぽっかりと黒い眼窩を覗かせていた。
 少女は、喉元に込みあげてきた酸っぱい塊を、音をたてて飲みこみ、右手で口と鼻を覆って目を背けた。
 あまりに酷い。まるで、鋭い爪と牙を持つ獣にでも襲われて、食われたかのようだ。
 そこまで思って、少女はハッと思い当たった。
(……野良犬?)
 まさか、と否定して、少女は、すぐにそうだと確信した。
(この辺にまで野犬がでてくるようになるなんて)
 暗く、崩れかけた灰色の都市は、広大な荒地に囲まれていた。歪な円形をしたこの都市は、外側にいくにつれ、汚れ、崩れ、傷み、荒れている。外縁部のビルは、殆どが、住むことはおろか、近づくことさえ危険な状態だ。
 その先は、既に完全に崩れた瓦礫の山が一キロメートルほど続き、瓦礫は、都市から離れるほど、風化したか、埋もれたか、荒地の黒っぽい土へと変わる。その先を確かめた者はいないが、荒地のずっと先は、草木も生えない永遠の砂漠に繋がっているという噂だ。
 その、瓦礫の山の中に野犬が住みついていた。常に空腹な野犬達は、同じ瓦礫や外縁部の廃墟に住む不運な小動物を餌食にするだけでは飽き足らず、時折、都市部に入り込んでは獲物を探した。それでも、今までは、天使達がいる中心部近くまでやってくることはなかった。
(これじゃあ、天使達はますます住みにくくなってしまう。あの店にさえ、現われなくなってしまうかもしれない。そしたら、あたしは。あたしは……どうしよう。どうしたらいいんだろう)
 天使は、その美しさと、卵人にはない特殊な能力と引き替えに、卵人達に比べ、はるかに脆い身体組織をしていた。その上、卵を産みおとしたばかりの天使は更に弱っているから、野犬に襲われたなら、きっとひとたまりもなかっただろう。
 そのあまりの脆さに、天使達はその内絶滅してしまうだろうという者もいたが、少女には、天使のいない世界なんて考えられなかった。予知能力のある天使が、自分達の滅亡を予言しているという噂もあったけれど、少女は信じなかった。
 あんな美しいものが消えてしまうなんてことがあるだろうか。
 そんなの、許されない。彼らがこの世に存在しないことが、あたしには信じられない。彼らのいない世界なんて想像できない。
 少女は、天使の残骸からは断固として顔を背け、自分の足元に転がる、白い卵に再び目を落とした。
 それから、自分でも意識しないまま、両手を添え、おそるおそる卵を手に取った。
 卵は丁度、一つ分の手の大きさ。
 卵を持ち上げる自分を、遠く、他人事のように感じる。
 トクン、トクン、
 天使の鼓動が聞こえる。
 壊れないように、落とさないように。
 右手で抱え持ち、左手でコートを拡げ、その中に覆い隠すように卵を包みこんだ。
 そして、駆けだした。
 血まみれの天使を、目を瞑って飛び越え、少女は走った。
 切り裂かれた傷口はぱっくりと口を開け、虚無の扉。全てを飲みこもうと、闇より深い深淵が追いかけてくる。
 崩れた美貌。牙をむいた獣。ゼリーの詰まった黒い眼窩。光る卵。血まみれの金の髪。振り下ろされる爪。骨まで見える深い傷口。吹きだす血潮。脈うつ卵。赤く燃える獣の目。音をたてる肉片。黄色い牙。鮮血。引きちぎり、咀嚼する濡れた音。足元を擦り抜けていった影の、ゴワゴワとした硬い毛並み。血の臭い。
 そんなものが、頭の中でグルグルと回る。眩暈がして、吐きそうになる。
 唯一つ、少女を気絶しそうな眩暈から現実に繋ぎ止めているのは、腕の中のぬくもり。ただ、腕の中の熱だけを頼りに、少女は暗い路地を走り続けた。
 肺が悲鳴をあげている。心臓は破裂しそうだ。それなのに、足は勝手に、今までだしたこともないようなスピードで、走り続けている。止まらない。止まらない。
 止まれなかった。


 ようやくアパートに辿り着いた時の少女の姿は、酷いものだった。
 まっすぐな灰褐色の髪は乱れて、汗で額にへばりついていたし、顔は、毛穴という毛穴から真っ赤な血が噴きだしてきそうに赤い。安物のガラス玉みたいだと、少女が自分で評する緑色の瞳は、奇妙にぎらぎら光っている。すっかり乾いた唇は、白くひび割れていた。
 卵だけはきれいだった。
 なにがあってもそうなのだろう。どれほどの穢れの中にあってもそうなのだろう。天使と卵だけはそうなのだろう。
 少女は、無意識に体をぶつけた時についた照明に晒された、玄関の鏡に映る自分の酷い姿から目を逸らした。
 と、その時、少女は、初めて足元の異常に気付いた。膝下のクリーム色の靴下に広がった薄紅色の染み。それは血の色。天使の血の色。
 それが、あの天使の死体を飛び越えた時、その血溜まりを踏んで撥ねたのだろうということはすぐに予測がついた。
 靴の裏を見ると、やはり血がついていた。あれだけ走ったのに、右足の方に、まだかなりべったりと染みが残り、わずかなぬめりがある。
 足跡を残しながら帰ってきてしまったのだろうか。チクリ、と不安が痛んだ。
 けれど、そんなかすかな不安は、溶けるように混濁した意識の中に埋もれ、少女はよろめきながら、部屋の中に入っていった。
 荒い呼吸を繰り返し、ベッドの上に、タオルやらクッションやらコートやら、ありったけの布をかき集め、しまっておいた、一番上等の天鵞絨のクロスを上に広げる。
 そして、その上に卵。光を失いかけた卵をそっと乗せた。
 たとえ光は失っても、卵は美しかった。
 ベッドの上に作った即席の孵化場を少しの間眺めると、少女は無意識のまま、靴下と靴を脱ぎ捨て、まとめてダスターに放りこんだ。ガコン、ガコン、とシュートを落ちていく靴の音が遠のく。
 その音をぼんやりと聞きながら、少女は未だに信じられずにいた。こんな現実を信じていなかった。
 これは夜に見る夢のようだ。朝に見る幻。ビルの谷間に見える蜃気楼のようだ。
 少女は幻の中にいた。
 卵は幻のように美しかった。




   
         
 
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