壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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1-03


 茫然と凍りついたまま、それからどれくらいそうしていたのだろう。それはほんの数秒のようでもあるし、小一時間ほども経っていたようでもあった。少なくとも、カクテルの中身が分離して、真珠色と青紫とに分かれるだけの時間は過ぎていたようだ。
 カクテルグラスに視線を落とし、すでに飲む気を失った少女は、店をでようと思った。
 天使達の放つ光彩の破片に、全ての力を奪われてしまう前に。今はもう夢だったのかもしれないと思う、少し前に起こった出来事に、いつもよりはるかに疲れてしまった。
 立ち上がりかけてふと頭上を見上げ、夢のように美しい天使達を見た。そこに、少女の心をかき乱すだけ乱して去っていた天使の姿を見つけることはできなかったが、もう一度あのアイスブルーの瞳を見るのは、少し怖かった。ホッとしたような、残念なような、複雑な気分だ。
 それにしても、自分のいる薄暗いこの場所と、天使達が笑いさざめく光の場所とが、同じ店内だなんて、同じ世界だなんて信じられない。何回通ってきても、何度その姿を確かめてみても、未だにどこか信じ難い気がする。あの天使達はみんな、立体映像か幻覚かなにかで。店内にたちこめる青白い煙は、視覚を惑わす幻覚剤なのかもしれない。
 それともこれは、みんな夢なのかもしれない。
 天使を見ていると、現実感なんてものが薄れてしまう。全ての天使は幻か、さもなければ自分自身こそが作り物のような気になる。
 少女は軽く頭を振り、ゆっくりと立ち上がった。
 自分に対する嫌悪感とも罪悪感ともつかない感覚をひきずって、少女は背もたれにかけてあったモスグリーンのトレンチコートを手に取った。俯いたままそれを羽織ると、ボタンは留めず、ベルトはポケットにつっこんだまま、席を後にした。
 その後は、店をでるまで、光を纏う天使達のことは、決して見ようとはしなかった。
 澱んだ胸の重みに、息が苦しい。


 月はない。  
 地上の光と空を覆う暗灰色の雲の天蓋に、星も見えない。  
 足元を、水底のようにおぼろげに照らす街灯は、抜け落ちた歯のように、ポツリ、ポツリと数えるほどしか灯されていない。少女がでてきたばかりの店の壊れた看板は、ジジジ、と虫の鳴く声にも似た音をあげて、今はもうなにが描かれているのかも定かではない光の絵を浮かびあがらせている。それでも、看板があるだけマシだった。
 元は、賑やかで煌びやかな繁華街だったのだろう。看板を取りつける金具だけを、刺さった棘のようにビルの壁に残し、その全てが崩れて消え去ったものも多く、暗い都市は、既に抜け殻のようだった。その暗闇に蠢くものは、過去の残像か、死してなお消えることの叶わぬ亡霊のようだ。  
 だが、天使達は違った。どれほど地上が暗くとも、天使達は自らの内から出ずる光を纏って、滑るように歩いていく。
 その歩みに比べ、卵人達の歩く姿は、黒い紙を切り抜いた薄っぺらな紙人形のようだった。天使から吹く風に、頼りなげに揺れている。今にも、風に乗って、影の深い路地へと飛んでいってしまいそうだ。  
 少女は、コートのポケットに両手をつっこみ、重苦しい気分でフラフラと歩いていた。  
 いつも、天使達を見にあの場所に行く度に、こんな陰鬱な気分に満たされる。自分自身の醜悪さ、見苦しさにうんざりする。呼吸をするのが苦しくなる。人である自分を呪いたくなる。死んでしまいたいと、そんなことさえ頭を掠める。  
 それなら行かずにいけばいい。天使のいない場所に行けばいい。そっちの方がずっと簡単だし、気持ちも楽に違いない。卵人同士なら、妙な劣等感を抱くこともないだろう。それに少女は、卵人の中では、とりたてて美人というわけではないが、見苦しくない部類に入るのだから、ちやほやしてくれる相手の二人や三人、すぐに見つかるだろう。  
 だが、少女はすぐに、それは無理だと退けた。できるはずがないと思う。  
 できるはずない。そんなことできない。いくら天使達に侮蔑の表情で見られても。まるで相手にされなくても。一度天使に魅入られたら、その呪縛から逃れることなんてできるわけがない。
 あたしは確かに、もう逃れられない。  
 暫く天使の姿を見ないでいると、夢にまで見る。息がつまる。落ち着かない。会えば会ったで、こんなふうに暗い気持ちになるけれど。それでもあたしは。まるであたしは。  
 まるで、炎の中に飛び込む羽虫みたい。  
 炎に羽根を焼かれても、力が失われるまで繰り返し飛び込んでいく羽虫みたいね。  
 音をたてて死んでいくまで……  
 天使は光。  
 死へと誘う光。破滅へと導く光。  
 光は闇へ。  

 古い天使種族の殆どが滅んだ戦いで焼失した区画が、少女が歩く通りを挟んだすぐそこにあった。  
 その区画では、焼け残っているのはもはや骨組みだけだった。黒々とした焼け跡は、誰が手を入れることもなく、無残な姿を晒して放置されている。それは、黒く連なる墓標のようだった。  そんな焼け跡が、都市のあちこちにあった。中でも一際巨大な墓標は、以前は狩人の塔と呼ばれ、卵人達からも、天使達からでさえも恐怖の眼差しで見られた、狩人達が住んでいた五十九階建ての高層ビルだった。火災のバックドラフトで、ガラスは粉々に割れて吹き飛び、中にあった家具や調度品らしき消し炭が、通りの反対側にまで飛ばされ、鉄骨は歪み、床や壁が崩れて少し高さを失いはしたものの、今も暗い汚れた都市の中で、灰色の空を突き刺すように建っている。  
 少女は角を曲がり、更に暗い路地に足を踏み入れた。人気のないその道は、アスファルトがヒビ割れ、穴だらけで、廃材が散乱してひどく歩きにくかったが、少女の暮らすアパートメントへの一番の近道だった。  
 その時、サッと黒い影が足元を擦り抜け、少女はギクリとして立ち竦んだ。
 ゴワゴワの針金の束のような感触が、靴下越しに少女の足を撫で、背筋を凍りつかせた。なにかムッとするような、甘くて鉄錆じみた臭いが、走り抜けた一陣の風に乗って鼻先を刺激し、少女はぎゅっと眉根を寄せた。  
 恐る恐る、黒い塊が走っていった方角へ首を捻じ曲げてみたが、すでにどこにもそれらしき影は見えない。少女は、数瞬の間、まばたきもせずに固まっていたが、やがて大きく息を吐き、また歩きだした。  
 歩きだして幾許もなく、少女は、それを見つけた。  
 淡く光る物体。  
 ドキリと胸が鳴り、我知らず立ち止まっていた。  
 それは、天使の卵。  
 拳大の大きさの天使の卵だった。ぼんやりと光を発しているのは、それがまだ産まれたてだからだろうか。  
(……どうして……こんな所に、卵が?)  
 無意識の内に辺りを見回して、誰もいないことを確かめてから、少女は、吸い寄せられるように、卵に近付いていった。  
 卵は、嘘のようにきれいだった。  
 暗く、塵と埃まみれの路地裏で光を放つ白い卵は、嘘のようにきれいだった。  
 なにものにも穢されないだろうその白さ。卵から孵る天使達は本当に美しいけれど、卵は、この卵は、今までに見たどんな天使よりも美しいような気がした。  
 跪き、少女はそっと卵に手を触れた。卵はまだあたたかく、薄い粘膜に覆われていた。




   
         
 
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