彼ら天使達は、女の腹から産まれる人々を卵人と呼び、実際に卵から光に包まれて産まれる自分達をそう呼ばない。
それは、天使お得意の皮肉なんだろうか。天使達は、自分達以外のものに、劣等感や羞恥心を抱かせるのが本当に上手だから。呼吸をするように。眠るように。
それはとても自然で。そうであるのが当たり前で。そうでなければいけないような気になる。だからこそ、天使なのだと、天使であるというのはそういうことなのだと、そう思えるほど。
天使はいつも残酷で。
でも、だからこそ美しいのだと、少女は心の底から思っていた。怖いほどの酷薄さが、彼らの美しさをひきたたせるのだと。
そして、彼らもそれを知っているのだろう。自分達が、どんな表情を、仕草をした時が最も美しいか、彼らは知り尽くしているのだろう。どんな言葉が自分達に相応しいか、生まれた時からわかっているに違いない。
そんな天使達に、たとえどんなに冷ややかな視線を投げつけられても。どんなに手酷く傷つけられたとしても。
それでも、それでもあたしは駄目。あたしは天使が見えないフリはできない。
見ているわ、見てしまう、どうしたって。
死んでしまいたいと思ったって。殺したいと思ったって。
殺したくなるのは自分自身だもの。憎むことなんてできやしない。恨むなんてできるわけがないじゃない?
だって、彼らはその残酷さ、傲慢さが許されて当然の美しさをしてるんだから。どれほどの重い罪も、彼らの前には無力だから。その姿、声、仕種、どれをとっても、彼らが至上の存在であることを示しているんだもの。あたしなんかは、彼らと同じ空気を吸うことさえ畏れ多いことなんだと、あたしは心の底からそう思う。
だから、どうすることもできないわ。
何度目かのため息をついて、少女は視線を落とした。テーブルの上には、飲みかけのカクテルグラス。影に影を映している。紫がかったシルバーブルー。白い陶器の小皿に盛られたカシューナッツが、手もつけられずに横たわっている。
雲上の天使を見上げ、この店に入ってから、一番深い吐息。
天使達に比べたら、繊細さとはほど遠い自分の手を見、耐えかねたように目を逸らしてため息をつく。似ているのは、同じ陽の射さない地上に生まれた故の、ぬけるように白い肌の色くらいだ。
手袋をしてくればよかった、そんな後悔に捉われた時、
「相席をいいかな?」
「え」
独特の透明な声に、少女は、ドキリとして顔をあげた。
瞬間、心臓が締めつけられるように痛くなる。
薄絹のパールドレス。ブルーオーガンジーのショール。蜜色の髪。氷の青をした瞳。
そこにいるのは、天使だった。
「いい?」
「は……はい」
およそ信じ難い出来事に、呆然と天使を見上げていた少女は、問われて慌てて頷いた。緊張のあまり、変に甲高い声になり、羞恥に顔が熱くなる。こんな声を天使に聞かれてしまうなんて。
「じゃあ、失礼」
そんな少女の動揺などまるで気にもかけない様子で、天使は滑るように少女の目の前の席に腰をおろした。
少女は、反射的に両手をテーブルの下に隠し、間近で見るその秀麗な美貌に、そわそわと落ち着かなげに、隠した両手を組み合わせた。同じ一階席にいる卵人達から、羨望と嫉みと驚愕のざわめきの波が押し寄せ、少女を遠く押し流していくような気がした。刺すような視線に、体中から血が噴きだすような気がした。
今すぐ逃げだしてしまいたい。このまま時が止まればいい。
相反する想いでゆらぐ心を持て余し、少女は目を伏せた。
天使が腰をおろした時、フワリと風にのり、官能的な香りが漂ってきた。少女は、今度は急に、自分の体臭が気になった。
こんな、夜の光のような香りに比べて、自分は?
臭くない? おかしな匂いはしてない? 家を出る時に、もっと念入りに身体を洗ってくればよかった。あんまり高くて手が出なかったあの香水、こんなことなら、無理にでも買っておけばよかった。
黒と灰色の渦を巻く思考は、勝手にあらぬ方に曲がっていってしまう。冷静に筋道立てて考えるのが、ひどく難しい。
なんて名前だったかしら。あの香水。 『天使の羽根』? 『黄金色の黄昏』? 違う、そんなんじゃない。そんなんじゃなくて、あたしが今考えるべきなのはそんなことじゃなくて……
伏し目がちに、少女はこっそり目の前の天使を窺い見た。真っ直ぐに見つめることのできる卵人など、おそらくいないだろう。
天使の、ゾクリとするほど繊細でしなやかな指を持つ手が、テーブルの上に置かれていた。一枚の絵画のようなその手の形、指先までも完璧な美しさを放っている。
少女は思わず見惚れ、口元がだらしなく開きそうになるのを、慌てて引き締めた。
駄目。こんなんじゃ駄目!
羞恥と恍惚を、ありったけの意志の力で無理やり捩じ伏せ、少しだけ落ち着きを取り戻した少女に、次に訪れたのは困惑だった。
少女は、相席をするほどこの店が混んだりしないことを知っていた。それに、天使は一階席なんかに座らないことも。でも、確かに今、彼女の前に座っているのは、天使だった。
どうして? こんなこと、今まで聞いたこともない。こんなの、あるはずがないのに。
少女の困惑と、不安と、その瞳に見つめられている恥ずかしさといたたまれなさを見透かしたように、天使はクスリ、と笑った。その笑い声に、心臓が止まりそうになる。
「恥ずかしがることはないのに」
「え……?」
「手、上にだしたら?」
聞こえてた!
カッと、火がついたように顔が熱くなり、少女は、絶望にも似た想いで目を瞑った。心臓の鼓動が、耳元でガンガンと騒がしい。足元の感覚は消え、少女は、宙に浮いているような不安感を覚えた。
どうしたらいいの? どうすればいいの?
聞いてた。あたしが自分の手をみっともないって思ってたこと。手袋してくればよかったって後悔してたこと。じゃあ、臭くないかなんて心配してたのもバレてたの?
少女は、テーブルの下で両手を握りしめた。首から上ばかりがひどく熱いのに、足の先からはどんどん血の気が引いていく。脳味噌が熱でとろけだしてしまいそうだ。足は冷たくて氷の彫像になったようだ。
「こっちは風上だから、平気だけどね」
嘲りを含んだ微笑み。その言葉に乗せた棘によく似合う、澄んだ声。
「!」
心臓が弾ける。壊れてしまう。
駄目。これ以上余計なこと考えちゃいけない。天使にはわかってしまう。彼らにはみんな聞こえてるんだから!
少女は、懸命に頭の中を白くして、なにも考えまいとした。だが、そう思えば思うほど、いろんなこと、考えたくないことばかり考えてしまう。
「きみは、ぼくらを殺すんだろう?」
「え」
あまりに唐突な言葉に、少女は思わず、天使を真正面から見据えてしまった。うっすらと微笑む天使。
いけない!
自分のものではない誰かの声が、耳元で鋭く警告の言葉を発した気がした。
だが、それもすぐに遠ざかり、頭と身体は、白くて重いゼリーの塊に押し包まれているように、痺れてなにも考えられなくなる。
少女は視線を逸らすことができない。天使が言った衝撃的な言葉さえ、あっという間に頭の中から消え去り、少女は本当に、なにも考えられなくなった。
「楽しみにしてるよ」
微笑みながらそう言い置いて、天使は夢のように立ち上がった。そしてそのまま、風が吹くように薄闇にとけていく。
少女は言葉を失い、立ち去る天使を感じながらも、一言も声を発せなかった。身動き一つできなかった。
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