「どうしたの?」
ガラスケースに内側から両手の平を押しつけて、多良太はアディケルの突然の変貌に、目を見張った。サフィリエルはわずかにかぶりを振り、罪悪感の宿る眼差しでアディケルを見下ろした。その瞳には、赤い光。
「私のせいだ。私の本当の名前はサリエル。邪眼を持つ天使に付けられる名だ。私の眼は邪眼。今までは封じられていたが、お前を連れていったザファイリエルじゃないもう一人の天使が、集積場で私に攻撃を仕掛けてきた時に、発現したんだ。その後も、ここに来るまでに会った者達は皆、私の眼を見ただけで壊れていった」
多良太は戸惑ったように首を傾げた。
「でも、ぼくは確かにサフィリエルの眼を見たよ。ぼくが知ってるサフィリエルの眼と同じだったし、ぼく自身、なんの変化も感じられないよ」
「本当に同じか?」
サフィリエルは恐る恐る多良太に顔を向け、それでも真正面から見つめることができずに聞いた。多良太は、液体の中にいるせいで、少しゆっくりになる動作で頷いた。
「同じだよ、サフィリエル」
「そうか」
サフィリエルはホッと胸を撫でおろした。
それなら、サフィリエルの邪眼は、黒い天使達にのみ有効な力なのかもしれない。多良太のような新しい天使には通じない力なら、この力は、多良太と同じく、古い種族を滅ぼし、新しい種族で世界を満たすために授けられたのだろうか。
多良太と同じだと考えると、少し、嬉しいような気さえする。
今もまだ呻き声をあげながら蠢いているアディケルや、他の天使達にとっては、確かに忌まわしき呪われた力だとしても。
と、多良太がふいに思いついたように尋ね、サフィリエルは一瞬の物思いから引き離された。
「だけどサフィリエル、どうやってここまで来れたの? サ……リフェールが行ってくれたの? それとも、あのザファイリエルが?」
サフィリエルは言葉につまった。
多良太がなぜザファイリエルの名前をだしたのかはわからないが、リフェールもザファイリエルも既に死んでいるということを、どう伝えればいいだろう。それとも、黙っていた方がいいだろうか。
サフィリエルが思い悩んでいると、多良太がふいに、ぎゅっと目を瞑り、サフィリエルは、ハッと息を呑んだ。
多良太は、目を閉じたまま、ポツリと呟いた。
「死んだの……」
サフィリエルは、二人の死が、まるで自分のせいだったような気分だった。多良太は閉じていた目を開き、悲しみに満ちた青い瞳で、ゆっくりとかぶりを振る。
「サフィリエルのせいなんかじゃないよ。それは寧ろ、ぼくのせいなんだ」
「なにを言ってるんだ、お前のせいなわけがないだろう」
「ううん。だってサフィリエル、もとはといえば、ぼくが黙っていたからなんだよ。もっと早く、二人にちゃんと話してたら、こんなことにはならなかったんだ」
「それは、リフェールが……ザファイリエルと通じてたということをか?」
蘇ってきた胸の痛みを呑み込んで、サフィリエルは尋ねた。
「そうじゃないよ。それもあるのかもしれないけど、もっとずっと大事なことだよ」
「もっと大事なこと?」
訝しげに首を傾げたサフィリエルに、多良太が言った。青い瞳で、真っ直ぐにサフィリエルを見つめて。
「ぼくたちの、約束のこと」
「約束?」
約束、したでしょう?
あの日、幻のように聞いた言葉が蘇る。
多良太の眠っていた卵を、手にした時、そんな声を聞いたような気がしたことを、ふいに思いだした。
戸惑うサフィリエルに、多良太が言葉を重ねる。
「ぼくらはきっとまた会えるって約束したでしょう? また会えたでしょう? ねぇ、ルーァ」
暗灰色の雲が厚くたれこめ、崩れかけた地上の都市は、自身の影に呑み込まれそうだった。
暗い都市の、更に暗い路地裏に、落ちていた卵。
雲の下の空は暗く、胸を騒がせる鐘の音が、黎明の都市に鳴り響いていた。
聞こえぬ声を求め、そして見つけた、砕けそうな翠緑の瞳の少女。
胸に広がる熱。身体を貫いた光。耳元で唸る風音。
最期の誓い。約束。
サフィリエルは、まともに立っていることができなかった。
思わず跪き、理解と同時に戸惑いが浮かぶ混乱した表情で、ガラスケースの中の多良太を見上げた。
「多良太? あれは……これは、現実なのか?」
多良太が微笑む。それは肯定のしるし。
「あれは本当にあったことなのか? 私は……一度死んで?」
「そうだよ、ルーァ。思い出してくれた? ぼくは、もっと前からわかってたんだ。だけど、約束してくれたでしょう? ぼくを、見つけてくれるって。だから、きっと思い出してくれると思ったんだ。全部思い出してくれたら、今度こそ三人で誰にも邪魔されずに静かに過ごせるって思って。ルーァとサキが、無理矢理にじゃなくって、自然に全部思い出してくれたら、今度こそきっとうまくいくって、そう信じたくって、ぼくは黙ってたんだ。だからごめんね。もっと早く、二人に思い出してもらうために努力するべきだったんだ」
サフィリエルは……ルーァは、呆然と多良太の言葉を聞いていたが、ふと思い当たって、尋ねた。
「リフェールは、サキか?」
聞きながら、ルーァは既に確信していた。
リフェールはサキだ。間違いない。初めて出会った時の、あの幻。翠緑の瞳。
「うん。サキにも、ここに連れてこられる前に、少し話したんだ。たぶん、思い出してくれたと思うんだけど。 ねぇ、ルーァ。サキはどこにいたの?」
「サキは……ここから集積場へ通じる道で……」
血まみれになって、ぐしゃぐしゃに潰れていた。
「じゃあきっと、思い出してくれたんだね。思い出して、ルーァのところに行こうとして、それで……」
多良太もやはり言葉を濁し、痛みに目を伏せた。
「サキを、連れてこよう」
ルーァは言って、立ち上がった。
抱えていては、多良太を助けだすのに間に合わなくなるかもしれないと、中で侵入者として攻撃を受けた時、あれ以上壊されないようにと、大聖堂に入る前に、外壁の前に寝かせてきた。
最早、多良太をここから連れだすことが不可能なら、せめて一緒にいたい。
その魂は、既にないとしても。
ルーァの心の声を聞いたのか、聞かずとも察したのか、多良太はなぜかと聞きもせず、ただ頷いた。
部屋をでて行きかけたルーァは、ふと、腰を曲げて屈みこみ、未だ床に倒れたままのアディケルの肩を叩いた。
このままここに置いておいて、万が一、多良太に危険が及ぶことがあってはならない。他の天使達のように自分から外へ出て行くか、さもなければ抱えてでも連れだそうと思った。
ルーァに肩を叩かれたアディケルは、ビクッと痙攣するように震えた。
そして、赤い炎の宿る虚ろな目をあげると、突然、勢いよく立ち上がり、ルーァがなにをするまでもなく、アディケルはそのまま、狂ったように駆けだしていってしまった。
実際、彼はもう狂っているのかもしれない。自らを焼きながら、風に舞い散る枯葉のような炎を撒き散らしていた、ラグエルの姿が思い浮かぶ。呪われた瞳は、相手を狂気へと陥れるのかもしれない。
ルーァは、走り去ったアディケルの後を追うように部屋を後にした。
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