「あー、勝手に近づくな、お前」
こちらに背を向けてガラスケースの前に屈みこんだまま、ぞんざいな口調で言ったのは、長いカーリーヘアを首の後ろで束ねた、アディケルという名の天使だった。
彼は、同じ部屋にいた二人の天使の異変にも、気付かないのか、興味がないのだろうか。茶色い小瓶を取り落とした女天使が、今突然、ハッとしたように立ち上がり、脇目もふらずに部屋を飛びだしていっても、チラとも目をくれなかった。
多良太に気を取られ、アディケルがそこにいることに気付かなかったサフィリエルだったが、気づくと、全ての答えを求め、アディケルの背中に尋ねた。
「これは、なんだ? 多良太になにをしたんだ?」
「タラタ? ああ、この異形か。突然変異の原因を調べてるのさ、勿論」
アディケルは面倒臭そうに答え、サフィリエルはその答えに顔を顰めた。
「多良太は異形なんかじゃない」
「いやいやいや、異形さ、これは。見ればわかるだろう、お前。天使の特徴の片鱗もない。こうまで変異する理由があるはずなんだ、なにかな」
アディケルは相変わらずサフィリエルに背を向けたまま言い、なにかの装置をいじっている。時折、カチカチと乾いた音がしていた。
多良太はガラスの筒に浮かんで、眠っているかのように静かだ。よく見ると、肩甲骨の辺りから、透明のチューブが二本、ケースの基底部に吸い込まれていた。
「やめてくれ……」
サフィリエルは、絞りだすような声で言った。背を向けたままのアディケルに、その声は届かない。サフィリエルはもう一度、少し大きく言った。
「やめてくれ」
「ん? なにをだ?」
振り向きもしない上の空の問いに、サフィリエルは苦痛に歪んだ声で言った。
「多良太をそこから出してくれ」
「なんのためにだ?」
「多良太は、生きている一人の個人だ。誰にも、その自由を奪って好き勝手にする権利などないはずだ。……生きて、いるんだろう?」
不安に胸が締めつけられて、苦しい。
これでもし、既に死んでいると聞かされたら、正気を保っていられるかわからなかった。
「全種族に対する個など、無に等しいさ、お前。生きてはいる、一応な。だが、出せば死ぬぞ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。既に同化済みだからな、これに」
顎をしゃくって、ガラスのケースを指し示す。
その言葉の意味を、頭はわかっていた。だが、心は理解することを拒んだ。
「そんな馬鹿なことがあるものか」
「馬鹿とは心外だな。偉大な研究結果だ、これは。生かしたまま、詳細なデータを得るのに最適だからな。ただの水槽だとでも思っているのか、お前」
「そんなことじゃない」
どうしてわからないんだと苛立ちを隠せずに、サフィリエルは眉根を寄せた。そして、きっと、どうしたってわからないのだろうと思った。
「もう、話すこともできないのか?」
軽やかな鈴の音のような多良太の声。耳朶をくすぐる羽毛のような笑い声。胸を締めつけるほど明るく澄んだ青の瞳も、もう見ることはできないのだろうか。
「いや、話せるぞ」
意外にもあっさりと言って、アディケルはサフィリエルを見もせずに続けた。
「話させてやろうか、お前」
そう言うと、サフィリエルの返事も待たずに手を動かす。
次の瞬間、多良太の眠るガラスケースが青く輝いた。それは、中に充たされた液体が発光しているかのようだった。
ビクン、と多良太の全身が痙攣するように震える。絹糸のような金の髪とそこから伸びて背骨を覆うたてがみが、それだけ別の生き物のようにゆらめいた。
サフィリエルはハッと息を呑んで多良太を見つめた。生きて再び会うことを、なによりも切望していたのに、ここにきてなぜか、少し怖いような気持ちだった。
リフェールのことをどう話そうか。
頭の片隅で微かに考えている間に、青い光は薄れ、最初に見た時と同じ、淡く薄い青の液体の中で、多良太が身じろぎして、丸まった身体を伸ばした。
閉じられていた瞼の下で、眼球が左右にゆっくりと動くのがわかった。それから、金の睫毛をふるわせて、多良太が目を開けた。
最初、その目は、なにも見ていないようだった。
虚ろな眼差しが、青い液体越しにサフィリエルを捉え、パッと明かりが点るように、冴えた光が瞳に宿る。
呼吸をするのも忘れ、声を失って立ち尽くすサフィリエルに、多良太がガラスケースの中で微笑みを浮かべた。
とても嬉しそうな、陰のない微笑みに、サフィリエルは瞼の奥にジワリと広がる熱を感じた。
「サフィリエル。よかった、もう会えないと思ってたよ」
多良太の少しくぐもった声が、ガラスケースの下の方から聞こえた。
その声に、サフィリエルを縛っていた呪縛が破れ、サフィリエルは手を伸ばせば届く場所まで歩み寄り、囁くように多良太を呼んだ。
「多良太……」
多良太は微笑みを深め、わずかに頷いてみせた。サフィリエルを見つめる瞳は、こんなものに閉じ込められている状況からは考えられないほど、凜、と澄んでいた。
「ほらな。話せるだろう? 喉にマイクを埋めこんであるからな」
ガラスケースの基底部に繋がれた機器から顔をあげずにアディケルが言い、サフィリエルはその時になってようやく、呪われた瞳で多良太を見つめていたことに気づいた。
一瞬、ひやりと背中が冷える。反射的に目を逸らし、それから、確かにその目を見つめたのに、多良太の瞳は、澄んだ青い色を湛えたままだったことに思い当たった。
(どういうことだ?)
滅びを蒔く赤い邪眼は、天使の黒い瞳にしか映らないのだろうか。それとも、多良太を見つけた瞬間に、赤い色は消えたのだろうか。
多良太はサフィリエルの瞳の色について、なにも言わなかった。なにも言わないということは、多良太の見慣れた青みがかった灰色の眼に、戻っているのかもしれない。
サフィリエルは、念のため、顔を背けたまま多良太に尋ねた。
「多良太、私の眼の色を見たか?」
「見たよ? どうかしたの?」
「なにも変わりはなかったか?」
「変わりって……邪眼? なぁに、それ」
声にださない言葉を聞いて、不思議そうに問いかける。
それに、初めてアディケルが興味を惹かれたように顔をあげた。
「邪眼? 邪眼のサリエルは隔離されているはずだぞ」
サフィリエルは、アディケルに答えるか否か、ほんの数刹那、逡巡し、言った。
「それは、私のことだ」
「なんだって?」
サフィリエルがこの部屋に入って以来、ずっと背を向けていたアディケルが、振り返り、サフィリエルを仰ぎ見た。
そして見返したサフィリエルの瞳に、一瞬、
「馬鹿な……」
と呟いたアディケルは、次の瞬間、
「うっ……ううっ」
呻いて両手で頭を押さえ、座っていた背もたれのない小さな円椅子から滑り落ちた。
激しく震えながら、アディケルは胎児のように身体を丸め、灰色の床で身もだえる。その様はまるで、死にかけた黒い虫のようだった。
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