小さな子供を抱えて飛ぶ、暗灰色の翼の天使は、その後も多くの天使達の注目を受けたが、その異様ともいえる姿と張り詰めた雰囲気に、誰も声をかけられないようだった。
サフィリエルは、細く長い翼を駆って、先を急いだ。
大聖堂の正面には、黒い石段と、その先に続く精緻な装飾が施された両開きの扉がある。
が、その巨大な正面扉は、特別な儀式の時でもなければ、開かれることはない。日頃使われているのは、その脇にある通用門だった。
そして、通用門の前には、門番の天使が二人。
彼らは、翼というより、長い衣を打ち振るように飛ぶ、暗灰色の天使の姿に暫く前から気付いていた。その天使が、両手に黒い塊を抱えていることも。
手にしていた光沢のない黒い六尺棒を威嚇するように構えて、その天使が近づくのを待っていたが、もう充分に声が届くと判断すると、内の一人が、威圧的な調子で声を張り上げた。
「ここは関係者以外立ち入り……」
言葉の終わりが崩れるように溶け、その天使は頭を抱えて膝をついた。サフィリエルの眼を、見てしまったのだろう。手から落ちた六尺棒が、乾いた音をたてて転がった。
なにをしているんだと問いかける前に、もう一方の天使も、サフィリエルの眼差しに射られて、手にした六尺棒を落とす。落とすと同時に、自らも転がるように倒れこんだ。
サフィリエルは二人の門番を赤い瞳で退けると、大聖堂前に降り立った。
細かな浮き彫りの模様が描かれた大聖堂の外壁の前に、リフェールをそっと寝かせる。
リフェールの身体はまだやわらかく、少し冷たいが、完全にぬくもりが消えてもいなかった。そうして、ただ横たわらせていれば、リフェールは少し疲れて眠っているように見えた。白い骨の見える顔の傷痕と、乾いた血のあとさえなかったら、本当に眠っているようだ。
「リフェール、すまない。少しだけ、ここで待っていてくれ」
物言わぬリフェールの屍に囁きかけたサフィリエルは、長い翼を引き摺るようにして黒い石段を昇っていった。呻き声をあげる門番の天使たちには一顧だにくれず、鍵のかかっていない通用門の方を、両手で引き開ける。長く閉じ込められて白い両手の肌は、リフェールの薄紅の血で斑に染まっていた。
翼が、しゅるりと背中に吸い込まれた。
大聖堂の中は、ひんやりと冷えて、静かだった。
傲慢な表情で見下ろす天使の壁画が飾られた廊下を歩き、天井の高い吹き抜きになったホールに入った。
(多良太はどこだろう)
ザファイリエルがここに連れ込んだに違いないと見当をつけてきたが、ザファイリエルが普段どこにいるのかも、多良太を連れ込むような場所にも心当たりはない。
サフィリエルは、手当たり次第、扉を開けては中を調べていった。
一つ一つ地道に探すのも、あの無数の卵たちを数える作業に比べたら、ずっと楽だった。中にいる天使に見咎められたら、躊躇わずに相手の目を見据えた。リフェールを失い、多良太がどうなったのかもわからない今、呪われた力は、寧ろ祝福に近く思えた。
幾つめの扉だったか、サフィリエルは、馴染み深い場所を含め、多くの場所を映す部屋を見つけた。
部屋の中には、焦げた死体があった。
死体には、三対の羽があった。
(……ザファイリエル?)
それはあまりにも唐突で、無意味なものに思えた。どうしてこんな場所に、あのザファイリエルの死体が転がっているのだろう。
縦横に並んだモニターの青白い光が、瞬きしながら室内を照らしていた。唯一つ、黒い景色の中で異彩を放つ、白い卵の海が映しだされたモニターに、ふと目を遣る。
その身を焼きながら、崩れた炎を蒔くラグエルの姿が、ぽつりと見えた。その熱で、卵のカプセルが溶けてしまわないかと気になったが、今はそれよりも気にかかることがある。ザファイリエルの死因も、今は考えを巡らせている時間はない。
(多良太は、どこだ?)
ザファイリエルと共にいるのだと思っていたが、どうやら今は違うようだ。様々な場所を映すモニターのどこかに、多良太が映ってはいないかと目を凝らしたが、どこにもその姿はない。
サフィリエルは諦め、モニター室とザファイリエルの死体を後にした。
そしてまた、順に全ての扉を開けて中を確かめる作業に戻り、どれくらい経った頃だろうか。
そこは、奇妙な部屋だった。
不自然なほどに乾いた、灰色の部屋だった。
最初に目に入ったのは、空っぽの暗灰色の細長いベッドと、その先にある壁一面の緑色のディスプレイだった。
ディスプレイには、見慣れない白い文字と数字が羅列されていた。
「誰!?」
部屋の右側から聞こえた声に、目を遣る。
無造作に後ろで髪を束ねた女天使が、黒い戸棚からなにかを取りだそうとしていた。非難めいた迷惑そうな表情が、サフィリエルの赤い瞳に晒された途端、恐怖と衝撃に凍りつき、手から茶色いガラス瓶が滑り落ちた。ガラス瓶は、床で砕けて、黄色い液体と共に飛び散った。
「なんだお前は」
今度は、部屋の左側から声がかかった。
サフィリエルが振り向くと、少しクセのある短い髪と、甘い顔立ちの男天使と目が合った。その途端、黒い瞳に炎が移り、その天使は、歪んだ声を上げながら、サフィリエルの横を擦り抜け、部屋を飛びだしていった。
と、サフィリエルは、飛びだしていった天使が立っていた先にある物に気づいた。
それは、大きな円筒形のガラスだった。透明なガラスの筒の上下は、鈍色の金属でできている。
円筒型のガラスケースの中に浮かぶ姿に、サフィリエルは全身の血が冷えて、爪先から流れだしていくのを感じた。
筒の中には、淡い青みがかった液体が入っていた。少し重そうな、ドロリとした粘液質の液体に見えた。
その中に、背中を丸め、かるく膝を抱えた姿勢で浮かんでいるのは、
多良太、
だった。
白い肌は最上部まで充たされた液体で青ざめ、まるで血の気が感じられない。金色のやわらかな髪とタテガミは、少し流れがあるのだろう。かすかに揺れていた。臍の辺りを見るように俯いた顔は、陰になって表情はわからないが、目は閉ざされているようだ。
「多良太……」
呻くように囁いたサフィリエルは、吸い寄せられるように、そのガラスの筒に近づいていった。
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