空が、青い。
サフィリエルは、思わず立ち竦んだ。
集積場の偽物の白さとは違う、本当の白い雲海が広がっている。黄昏にはまだ少し早いが、真昼を過ぎた空に、白熱する円盤が輝いていた。
サフィリエルは、暫し空の景観に見とれていたが、ハッと我に返ると、翼を広げ、空に舞いあがった。
眼下には、一本の道が、黒いサーチライトのように都市に吸いこまれている。都市自体は、黒々とした影でできた森のようだった。
サフィリエルは都市を目指し、黒道の真上を飛んだ。
都市部に入る前は、近くを飛ぶ者もなく、サフィリエルは自由に羽ばたき、飛んでいけたが、殆ど全てが八階から十階建てのビルでできた、茨のような都市に近付くと、天使のものとしては細長い、暗灰色の翼は、嫌でも周囲の注目を集めはじめた。
数人の天使が、スーッと滑るように近付き、サフィリエルの前後左右を取り囲んだ。
「お前、そんなみっともない羽出して、なんのつもり?」
サフィリエルの行く手を遮るように飛びながら、クセのある短い髪の天使が言って、サフィリエルの顔をひょいと覗きこんだ。
サフィリエルは、真っ直ぐにその天使を見返した。
赤光を放つ瞳が、その天使を射る。
と、天使は、グラリと大きく揺れたかと思うと、
「あっ……あっ……ああっ」
なにかよくないものに、追いつめらているような恐怖を含んだ声をあげ、両手で顔を覆うと、羽ばたきを忘れて失墜していった。
「ちょっと、どうしたの!?」
「おい、なにやってるんだよ」
共にサフィリエルを囲んだ天使たちが驚いて後を追う。サフィリエルはその隙に、先を急いだ。
少し行くとまた、何人かの天使がサフィリエルの行く手に現れた。
全ての天使に、邪眼で滅びの種を蒔こうとしているわけではない。誰に恨みを抱いているわけでもない。
先刻は、邪魔をされて思わず赤い瞳で退けたが、できることなら、誰もこの眼の餌食にしたくはなかった。サフィリエルは、顔を背けて擦り抜けようとした。
そして、何の気無しに下に目を遣ったサフィリエルは、都市を縫う黒い舗装路に、なぜか、見過ごしにできない違和感を感じた。
小さな黒い塊が落ちている。
そのただ一点に、焦点がキュッと引き絞られ、周りの全ては滲むようにぼやけた。
理由がわかっていたわけではない。だが、不安感に、心臓が急激に冷えていくのを感じた。
サフィリエルはまっしぐらに舞い降りた。
近付くにつれ、理由のない不安は、凍りつくような恐怖に変わっていった。
(リフェール?)
それは小さな天使の、
残骸、
だった。
黒いワンピースはボロボロに引き裂かれ、細い手足は有り得ない形に捩れ、乱れた髪が俯せの顔の周りに広がり、流れだした血が、てらてらと黒い道を暗く光らせている。
サフィリエルは、爪先から傍らに降り立った。粘りけのある液体が、靴の裏にへばりつき、音をたてた。
それからサフィリエルは、なにかに操られているように跪き、血だまりで膝を濡らしながら、そっと両手で肩を掴んだ。ゆっくりと引き起こし、仰向けに腕に抱く。血に濡れて顔に張りついて固まった髪を、パリパリと引きはがした。
「リフェール!」
間違いなかった。黒い瞳は瞳孔が開ききって、空洞(うつろ)な暗闇。顔の半分は、潰れてピンク色の崩れた肉と血に染まり、見る影もない。
息苦しさに、呼吸が速まる。耳の後ろで誰かがガンガンと割れ鐘を打ち鳴らしているようだ。
「リフェール、嘘だろう?」
嘘なんかじゃないことは、痛いほどわかっていたが、それでも言わずにはいられなかった。信じたくない。
だが、腕の中の重さとやわらかさは、紛れも無い現実と、サフィリエルに伝えている。
(どうして、こんなことに? リフェール、なにがあったんだ?)
声にださずに語りかけるサフィリエルの頭上で、声が聞こえた。
「その羽無しの知り合いか? 出来損ないは、出来損ないでツルむんだな、やっぱり」
「……リフェールに、なにをした?」
リフェールの屍を見下ろしたまま、暗い声で尋ねる。
「別に? 羽無しが天上で暮らすことの無意味さと危険性を教えてやっただけさ」
馬鹿にしたような答えと、その周りで沸き起こるクスクス笑い。
サフィリエルは、ハッキリとした意志を持って、顔をあげ、彼を見下ろす長い髪を一つに束ねた天使の目を、赤い瞳で見据えた。
「!?」
その途端、嘲笑を浮かべていた天使の表情は凍りつき、黒い瞳に、小さな炎が点った。
そしてサフィリエルは、周囲で同じように彼を見下ろす天使達の視線を次々に捉え、そこに自らの瞳の赤を映した。
グラグラと宙空で揺らいだ幾つもの影は、やがてバラバラに隊列を乱し、ある者は空高くまっしぐらに、ある者は斜めにフラつきながら、ある者は螺旋を描いて真横に飛んでいった。そして飛び去りながら、ちぎれた紙片のような炎を撒き散らした。
サフィリエルは、リフェールのボロボロの身体を抱き寄せ、しっかりと胸に抱いた。黒衣が血に汚れるのも、鼻の奥が麻痺するような死の香りも、気にならなかった。
いつまでもずっと、こうしていたかったが、サフィリエルにはまだやることがある。
(多良太を、見つけなくては)
多良太が、まだ生きているのなら。生きて助けを待っているのなら。まだ間に合うのなら。
ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
サフィリエルは顔をあげ、死んだリフェールの身体を抱いて、立ちあがった。
多良太はおそらく、都市の中心にある大聖堂に連れていかれたのだろう。ザファイリエルは大聖堂に暮らす評議員の一人。無関係な天使は立ち入りを許されていないその場所でなら、誰に邪魔されるでもなく、ゆっくりと調べられると考えたのではないだろうか。
サフィリエルは、リフェールを両手で抱えたまま、飛んだ。
集積場の卵の海の上を、嬉しそうに笑うリフェールを抱えて飛んだ日が、ひどく昔に思えるのに、記憶の痛みは、胸に刺さって息が苦しい。
あの日温かかったリフェールの身体は、今、少し冷たい。
サフィリエルが目指す、十二本の尖塔が突き刺さった黒い針山のような大聖堂は、あと少しだった。
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