「いつか孵る時がくるのかなぁ」
多良太の言葉が、繰り返し頭の中に響いていた。
あの日の情景が、何度も蘇ってくる。
「ここにあるこの卵全部、いつか孵る時がくるのかなぁ」
サフィリエルは地を埋める白い卵の冷凍カプセルを眺めやり、その日を想像しようとしたが、それはあまりにも現実味が薄い気がした。
それでもサフィリエルは、暫し考え込んでから言った。
「いつかは、くるのかもしれないな」
「もし孵ったとしたら、この卵から生まれてくるのはサフィリエルたちと同じかな。それとも……ぼくみたいかな」
「そう……お前と同じかもしれない」
「本当にそう思う? そうかなぁ。そうだったらいいなぁ」
多良太は、夢見るように呟いた。
その日の記憶に衝き動かされて、サフィリエルは次から次に卵の冷凍カプセルを、冷凍睡眠から覚醒モードに切り換えていた。
もう、幾つの卵を眠りから醒ましたのかわからない。果ての見えない卵の海。いつ終わるとも知れないが、そんなことは気にもかけていなかった。ただ目の前のカプセルを動かし、それが終われば次へと移っていくだけだ。
「サリエル!」
声が聞こえた。 もう久しく耳にすることのなかったその名前は、サフィリエルのもう一つの名前だった。正確には、今呼ばれた名前こそが、彼が生まれた時につけられたものだ。
サフィリエル、は、この集積場の管理責任者であるザファイリエルが、戯れにつけた名前だった。自ら考える意志を持たず、頭の中が真っ白だった彼を、白髪の天使、白頭と呼ばれた天使の名前で呼んだのだ。
だが、頭の中の白い靄が晴れて、自分の存在を意識するようになった時、リフェールに名前を告げた時、咄嗟に頭に浮かんだのは、本来の名前ではなく、ザファイリエルだけが呼ぶ、その名前だった。
だから、久しぶりに呼ばれても、サフィリエルには、それが自分の名前だと、すぐにはわからなかった。思いだしても尚、その呼び名に違和感を覚えつつ、サフィリエルは顔をあげ、声を振り向いた。
サフィリエルの場所から十数列ほど離れた空中に、この白い世界にポツリとできた虫喰いのような黒い姿があった。多良太とリフェールとザファイリエル以外に、名前は知らないが、唯一見覚えのある相手だった。多良太とリフェールを、彼の許から連れ去った天使だ。
その天使、ラグエルは、右手に炎の塊を掴み、サフィリエルを睨みつけていた。
「そこまでだ!」
言いざま、サリエルは右手の炎をサフィリエルに投げつけた。
咄嗟に身を翻して避けたサフィリエルの後ろで、ラグエルの火球がカプセルの一つに当たって弾ける。
ラグエルは、宙空に留まったまま、下にいるサフィリエルに向けて、次々に炎を放った。サフィリエルが避ける度、卵のカプセルに炎が降り注ぐ。白い床に火の粉が散り、パチリと弾けて消えていった。
幾つめの火球を避けた時だったか、サフィリエルはカプセルの一つに足を取られ、尻餅をつくように倒れこんだ。ラグエルの顔に浮かんだ、勝利の表情と悦びに満ちた宣告。
「死ね、サリエル」
引き延ばされた時の中で、サフィリエルは違和感のあるもう一つの名に思いを馳せた。
それは定められし名。
滅びと呪いの宿る名前。
サリエル。
邪眼の天使。
サフィリエルの瞳に、暗い陰が落ち、思わず、ラグエルはその目に引き寄せられた。
(まずい!)
目を逸らそうとした瞬間、ラグエルは見た。
天使が放つ炎よりも赤く、光よりもまばゆく目を射る、赤光の瞳を。
ラグエルの手から、炎の塊が、ポトリと落ちた。
左右の翼が羽ばたきのバランスを崩したかのように、ラグエルの体がグラリと揺れて、前のめりになる。と、突然、ラグエルは天井めがけて舞いあがった。ドン、と高みでなにかがぶつかる音がしたかと思うと、ラグエルがフラフラと落ちてくる。
ラグエルは、卵の海に飛び込むように、墜落した。
そのまま動かなくなるのだろうか。サフィリエルが思った直後、ラグエルはフラリと幽鬼のように立ちあがった。その手には、炎。そしてラグエルは、その炎を闇雲に投げ放ちはじめた。だが、その炎は、先程までの球体ではなく、生みだすそばからボロボロと形を崩し、乾ききった枯れ葉のように、すぐに崩れた。崩れた炎の欠片が、ラグエルの黒い衣に落ちて煙をあげたが、ラグエルはそれに気付いてもいないようだった。
彼の瞳にもまた、炎が宿っていた。
赤い瞳のサフィリエルは、ラグエルが自分自身をも焼き尽くしていくのをぼんやりと眺めていたが、突然立ちあがったかと思うと、細長い暗灰色の翼を現わし、宙に舞いあがった。
そしてそのまま、ラグエルには目もくれず、まっしぐらに目指した。
唯一つの外への扉を。
多良太とリフェールにもう一度会えるとしたら、今しかない。サフィリエルは風をきり、一条の矢のように飛んでいった。
そして扉を見つけた。二つ並んだ扉。日々帰っていった扉と常に彼を拒み続けた扉。
ラグエルが開けて入ってきたのなら、出ていっていない今なら、サフィリエルの手でも開けることができるかもしれない。
ラグエルが、サフィリエルの行動を知って、それを阻止すべく訪れたということは、どこからか、集積場内を監視していたということだ。
リフェールが訪ねてくるようになってから、なにも言われないでいた間は、監視していないか、システムが故障しているのではないかとも思ったが、リフェールのことも、多良太のことも、全部知られていた。多良太が時折他人の心を読むことまでは知らなかったようだから、音声はなく映像だけの監視システムだったのだろう。
(つまり、今も全て見られているという可能性が高いということだ)
見られているなら、うまく扉が開いたとしても、外の通路で攻撃されるか、すぐに増援を送りこんでくるだろう。ためらったり、考えている暇はない。
サフィリエルは扉の前に降り立つと、一瞬たりとも逡巡することなく、扉に手をかけた。
扉は、開いた。
黒い巨大な扉を抜けると、無機質な白い通路が続いている。天井は、飛んでいくには、少し低い。
サフィリエルは、殺風景な白い通路を走った。
記憶はひどく薄く、定かではないけれど、確かに一度はこの場所を通ったはずだった。
自らの足で立ち、歩けるようになってすぐに、集積場に連れて来られ、閉じこめられた。その時確かに通ったはずだったが、その記憶はあまりに遠い。
高速成長期を終えてもいない幼い自分が、こんな場所に閉じ込められ続けたのは、どれほどの罪を犯したからか、卵を数え続けるだけの日々に、もう忘れ果てていたが、ようやく今、思い出していた。
それは、生まれ落ちたこと。邪眼を持って、この世に生を受けたこと。
滅びを招く赤い瞳は、生後間もなく、青みがかった灰色の瞳に変わって封じ込められたが、それでも、いつ再びその力が具現化するかわからない以上、サフィリエルがひどく危険な存在だということは変わらない。
だから、その存在自体が、赦されざる罪。
リフェールは、自分を生んだ天使に疎まれ、存在を否定された。
多良太は、生まれることを恐れられ、阻止されようとした、進化した天使。
似ているのかもしれない。
自分たち以外に、誰も認めてくれない。周囲は全て敵でしかない。
だから、互いに惹かれあったのかもしれない。だから、こんなにも大切な存在なのかもしれない。
通路の先には、巨大な黒い扉。
白い世界に開いた、それは底のない深淵のようだった。一度落ちこんだら、二度と這いあがることはできない。
サフィリエルは、黒い扉にある、溶けこんだような取っ手に手をかけた。例えこの扉が、本当に黒い深淵だったとしても、きっと自分は飛びこんでいた。
取っ手を掴んだ手に力をこめて、サフィリエルは扉を押し開けた。
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