腰のボウホルダーから狩人の短弓を外し、左手で構えて、キリカの眉間に炎の矢で狙いを定める。なんとなく、なにか言い残したような、なにか聞きそびれたような、胸に淀んだシコリがある。フィムは、キリカに答えを求めるような気持ちで、問いかけた。
「なにか、誰かに伝えたいこととか、ある?」
「ないわ。ああ、いいえ、そうね……」
キリカは首を振りかけ、思い直したように頷いて、フィムの目をじっと見つめた。
「あんたは、死なないでよ」
その、強い視線と、真剣な口調に、フィムの指が震えた。
だがすぐに、しっかりと構え直して、首を振った。
「そんな約束は、できないよ」
少し困ったように言ったフィムに、キリカは笑った。
「そうね。言ってみただけよ」
「じゃあ、いくよ」
フィムの言葉に、キリカは微笑みながら頷いた。
そして、微笑んだまま、フィムの放った炎の矢に、額の真ん中を射抜かれて、キリカは色んなもの全部から開放された。
安らかともいえるキリカの死に顔を見下ろしたフィムは、一瞬、泣きだしそうな顔をしたが、すぐになにもかも諦めた虚ろな表情で、キリカの屍に背を向けた。
戦いは、まだ終わっていないようだ。
だが、死に場所を求めて、争いの激しい方へ向かうこともなく、フィムは地天使、下天使双方の死体が転がるその部屋で、幾つかの死体を跨ぎ越えて、窓際に歩いていった。
眼下の灰色の都市は、あちこちから火の手があがり、崩れかけた建物の多くに、最後の一押しをしているようだった。この争いが終わった後、まともに使える場所や建物はどれだけ残っているだろうか。
いっそ、なにもかもなくなってしまえばいいのに。
下天使だとか地天使だとか進化の卵だとか、そんなものはどうだっていい。なくなるなら全部なくなってしまえばいい。
そうして、天使の全てが滅んだら、この世界は、卵人達のものになるのだろうか。
(それは、嫌だな)
そんな世界は想像したくもない。
フィムは、ぎゅっと眉根を寄せた。
だが、それが逃れようのない運命だと、うっすらと感じる自分がいた。
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最上階の真下の階に集結した地天使達は、椅子やテーブルを積み重ねた階段を作ると、都市の巨大な地下空洞に眠っていたという、前時代の遺物で天井を破った。下天使に対抗する地天使のリーダー、セルドの言っていた「別の手段」がそれだった。だが、その威力も範囲も、正確なことを知る者はおらず、思っていた以上の破壊力に、せっかく積み上げた家具もろとも、数人の天使が負傷ることになった。
それでも、そんなちょっとしたアクシデントに怯む者はなく、すぐさま別の階段を作り、天使達は最上階へ雪崩れこんだ。
誰もいなかった会議室をあっという間に占拠すると、そこを拠点に、相手が状況を呑み込めずにいる内に、次々と攻めたてた。
だが、下天使達が攻撃に転ずると、最初は優勢だった地天使達も、かなり厳しい立場に立たされた。羽のある下天使達が、拠点とした会議室の窓を外から打ち破って攻撃してきたからだ。
戦いは分断され、あちこちで火の手があがった。
そしてその頃、地上の都市でも、激しい争いが展開されていた。
都市は混乱し、どこでどちらが優勢なのかはもちろん、敵や味方がどこにいるのかすらわからなくなっていった。
いつ背後から襲われるかもわからない状態で、ただ闇雲に、敵と見定めた者を狙い撃つしかできなくなっていった。
そして混乱の中、遂にじっと待機していることに耐えかねたアルクが、エレベーターを停止状態にロックして、戦いの場へと走りだした時、
「な!?」
アルクの心臓を、誰もいるはずのない背後から、赤い炎の矢が貫いた。
驚愕を浮かべたまま、どう、と倒れたアルクの後ろに立っていたのは、シェラ、だった。
左手に持つべき自分の弓は、ルーダに斬りおとされたため、今は代わりに、ルーダの黒い弓を手にしている。初めて使ったルーダの弓は、重さも形も、驚くほど自分の物にそっくりだった。出会ってから今まで、結局一度も抜かれるのを見たことのない、単なる飾りと思っていたルーダの弓が、自分の弓に酷似していることに、シェラは驚きと戸惑いを感じた。
それからシェラは、右手で赤い手の痕の残る首筋を押さえ、何度か咳き込んだ。咳き込む度、喉が焼けつくように痛む。
倒れたままのルーダを忌々しげに睨みつけると、シェラは踵の高い黒いブーツで、ルーダの腰を蹴りつけた。
「いてっ」
背中から弓を生やして倒れ伏していたルーダから、暢気そうな抗議の声があがる。
「ひどいな。なにも蹴ることないだろ?」
閉ざされていた瞼を開き、ルーダはむっくりと起きあがった。胡坐をかいて座りこみ、背中に手を伸ばし、ちょっと顔をしかめて、黒い狩人の弓を引き抜いた。
弓は、その半ばでザックリと斜めに斬られていた。ルーダの背中は、鋭い切り口で傷つき、薄紅の血を滴らせている。ルーダは、なんてことのないように、身につけていた上着を脱ぎ、それを細く丸めて、背中から胸に向けて縛った。包帯の代わりというわけなのだろう。
シェラの弓の残りの半分は、エレベーター内で燃やして炭にしてから、足で床に擦りつけていた。わずかな燃え滓がいくつか落ちているだけだったから、中にいたアルクにも気づかれなかったのだろう。
「やり過ぎよ。喉が潰れたらどうしてくれるの」
そう言ったシェラの声は、いつもより掠れて、喉に残る痕をつけられた時に加えられた力の強さを物語っている。
「そんくらいしなきゃ、疑われるだろ? お陰で詳しく調べられることもなかったんだ。感謝してもいいと思うぜ?」
シェラは、ルーダを、キッと、睨みつけてから、大きく息を吐いた。吐息と共に、怒りや苛立ちを吐き捨てようとしたのだろう。
「まぁいいわ。それじゃ、あたしは行くわ。あんたはそうやってただ座りこんでるつもり?」
「そうだな。ほとぼりがさめるまでな」
のんびりと答えたルーダに、シェラはわずかに眉をあげた。
「そんなこと言って、ぼんやりしてると、誰かに殺されるわよ。さっきも、誰だか知らないけど、あんたを殺したがってたのがいたみたいじゃない」
ルーダとシェラが最早死んだものと思って、その傍らで呟かれた言葉は、シェラにも聞こえていた。彼女には聞き覚えのないその声は、ルーダに向けられたものだと、直感的に感じていた。
「嬉しいなぁ。心配してくれんのか? シェラ」
ルーダは満面に笑みを浮かべて言った。シェラの言葉に対して、否定も驚きもしないということは、ルーダには心当たりがあるのだろう。
シェラは、ほんの一瞬、ルーダとその相手との係わりに興味を覚えたが、表情や言葉に表す前に、反射的にその興味を打ち消し、いつもの軽口に、ぎゅっと眉根を寄せて、吐き捨てた。
「有り得ないわ」
そして、ニヤニヤ笑っているルーダを睨みつけ、
「礼なんて言わないわよ。あんたが勝手にしたことだもの。じゃあね」
くるりと背を向けて、走りだした。
「じゃあな。死ぬなよ!」
背中にかかったルーダの声は、聞こえないふりをした。
狙いはただ一人。
下天使のトップ、智天使のレリエルだけだった。
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