扉を開け、廊下にでたフィムは、突然の爆音と振動に、反射的に身を屈めた。
「!?」
片膝をついた状態で、息を殺して気配を探る。
耳を澄ませるまでもなく、大勢の鬨の声で、場所の見当はついた。
同じ階、廊下の先にある左への曲がり角の向こう側。
(下から上に攻め込んだってとこかな)
フィムは声ださずに呟いて、立ち上がった。腰に下げた小振りの黒弓に手を触れる。使い慣れたその弓。何人、何十、いやそれよりもっと多くの命を躊躇うことなく奪ってきた。
(そろそろ、ぼくの番なのかもね)
今まで一度たりとも思ったことのないことを思い、フィムはチラリと自分の弓に視線を落とした。
それから、地天使達が、最上階に陣取った下天使達を攻めているらしき場所を目指して歩きだした。
彼らが上への道を見つけて作ってくれたのなら、それを使って自分も上に行くつもりだった。
そこでルーダを見つけたら……
どうするつもりかは、自分でもまだわかっていなかった。
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最上階に攻めこんだ最初はよかった。
狼狽して反応の鈍っているところを、片っ端から撃ち抜けばよかった。
だが、窓ガラスを撃ち破って、下天使達が外から攻撃することを思いついてからは、正直、優勢とは言えなくなってしまった。一度は制圧した会議室は奪い返され、地天使の仲間は細かく分断されてしまった。
(自分以外は全部敵だと思えばいいってことね)
キリカはそう腹を括り、次の獲物を求め、最上階の廊下を一人駆けていた。戦いの中心からは、少し外れてしまったようだ。
角を曲がり、開け放たれた扉からその部屋を覗きこんだキリカは、ハッと息を呑んだ。
(フィム!)
なぜ彼がそこにいたのかはわからない。
地天使、下天使、どちらの集団にも属することをしなかったその天使が、どうして今、この戦場の混沌の中に姿を現したのか。
その答えを尋ねるより早く、同じ部屋で倒れた一人の天使が、最期の力を振り絞って、フィムに炎の矢を撃ちだすのを見た。それをフィムは、避ける素振りもなく眺めている。
炎が正確にフィムへと走るのを見たキリカは、考える間もなく、咄嗟にその針路に飛びだしていた。
「っ!」
炎はキリカの腹部を焼いて、背中へと突き抜けた。
そしてキリカは、飛びだした勢いのまま、横倒しになって、どう、と、敷き詰められた絨毯が擦り切れて、床材が剥きだしになった部屋の床に倒れこんだ。
「キリカ?」
呆然とフィムが自分の名前を呼ぶのを聞きながら、キリカは痛みと熱に呻いた。
倒れこんだキリカの前に、フィムが背後から回りこみ、未だ驚きの冷め遣らぬ顔でしゃがみ込んだ。
「なんで? ぼくを庇ったの? どうして?」
信じられないと首を振るフィムを、キリカは、薄紅の血が流れだす腹部を両手で押さえながら見上げた。
「同じ女から生まれた者同士を、卵人達は、キョウダイだとかっていうんだってさ。だからって、あたし達天使には関係ないんだろうけど」
「関係ないよ。それが理由? そんな馬鹿みたいな理由で、命を捨てるなんて、馬鹿だよ」
「捨てる気なんてなかったわよ。あたしにもよくわからないわ。だけど、あんたは捨てる気だったんでしょう?」
キリカの言葉に、フィムはギクリと身を強張らせた。
キリカは正しい。
フィムには、最早、生き抜く気力はない。
地天使の軍勢が最上階へと攻め込み、その天井に穿たれた突入口から、騒ぎに紛れて自分も最上階へ上がったフィムは、混乱する戦いの中、早い段階でその報告を聞いた。彼に伝えられたものではない。人伝に過ぎなかったが、それでもハッキリと、フィムは聞いた。
ルーダは死んだ、と。
エレベーターで様子を見に窺い、乗り込まれた相手と相打ちになって、死んだ、と。
その相手の名前を聞いた時、フィムは絶望に頭蓋を撃ち抜かれた。胸の真ん中にも、見えない穴が、ぽっかりとあいた気がした。
ルーダはシェラと抱き合って死んでいた、と。
最期まであの女に固執して、共に斃れることを選んだのなら、あの女は、シェラは、真実、特別な存在だったということだ。今までルーダが手に入れた傍から捨ててきた、数多くの女天使たちとは違っていたということだ。
そんなルーダの想いを、なんと呼ぶのかはわからない。
だが、自分の中に渦を巻く、赤黒い色をした想いの名なら、わかる。
それは、嫉妬だ。
嫉妬の渦の真ん中は、絶望という穴に吸い込まれて、なにもない。
ひどく昏いその穴は、周囲の想いを飲み込んで、食い尽くし、やがて底のない常闇で埋め尽くした。
だからフィムは、戦いの激しい場所を探し、死に場所を求めた。
地天使と下天使が対峙して、炎の矢が飛び交うこの部屋に、自らの心臓を貫く一矢を願ったのに、彼らは相打ちで勝手に自滅していき、最期の力で放たれた矢は、フィムではなく、彼を庇って飛びだしたキリカを撃ち抜いた。
同じ天使の腹の中から、続けざまに産み落とされた。ただそれだけの関係なのに。自らの命を投げだす理由などありはしないのに。そのはずなのに。
フィムは戸惑い、全て塗り潰されたと思っていた感情に、名付けようのない一色がポツリと浮かぶのを感じた。
「それをわかってたなら、尚更馬鹿だよ。ぼくを庇うなんて」
「ホントよね。自分でもそう思うわ」
キリカは自虐的に笑って、その途端に咳き込み、顔を顰めた。
「ああ、嫌だ。苦しいのも痛いのも大嫌いよ。ねぇ、お願いがあるんだけど」
「なに?」
フィムは、キリカの願いを薄々感づきながら、問い返した。
「殺してよ。どうせ助からないわ」
「いいよ」
そのくらいのことは、してやってもいい。
そう思うのは、自分にとっても、キリカは少しだけ特別な存在だったのだろうか。
キリカは、ホッと安堵の表情で笑った。
「ああ、よかった。じゃあ、さっさとお願い」
「わかった」
フィムは頷き、右の手の平の上に、赤い炎を浮かべた。
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