この手で、殺したかったのに。
そのために、下天したといっても過言ではないくらいだったのに。
レリエルとは小さな頃から知り合いで、割と憎からず思っていたから、レリエルに頼まれれば結局は、下天していたかもしれない。だが、かなり迷ったのも事実。
それでも最後に下天を決意させたのは、地上に下りたら会えるかもしれないと思っていたからだ。
自分を産んだ女天使を手酷く傷つけて捨てた、この身に流れる薄紅の血の半分に。
その女天使に、自分はとてもよく似ていたから、自分を見て思い出し、少しは後悔したならば、もしかしたら。
そんなことは有り得ないと頭ではわかっていた。
だけどもしかしたら。
(結局、何度会っても思い出しはしなかったけどね)
だから。
だからきっと、この地上にいる間に、機を掴んで殺してやろうと思っていた。
殺す間際には思い出すだろうか? きっと思い出さない。だけどそれでもいい。最期まで、自分がなぜ殺されるのかわからないまま死んでいけばいい。だけど。
死んでしまった。こんなにもあっけなく。どうやって、なにを思って死んだのか、その瞬間を見届けることもできなかった。
いや、苦悶の表情で死んでいる女天使を抱きしめていたルーダの死に顔は、ひどく満ち足りて、幸せそうだ。その瞬間がどうだったのかは、想像に難くない。
「こんなの、不公平だよ」
ティファイリエルは、また、ポツリと呟いた。
彼に捨てられたあの女天使は、壊れてしまったのに。
壊れて、その狂気だけを注ぎ込んで自分を育てたのに。
自分の中に、深く深く狂気の種を植え付けて、狂気の水でその芽を育て上げたのに。
(不公平だ……)
ティファイリエルは、砂のような昏い目でルーダを見下ろしていた。
「行きますよ」
ティグが待ちかねてティファイリエルの肩に手をかけながら言った。
ティファイリエルは、光のない瞳のまま、導かれるままに体の向きを変え、歩きだした。歩きながら、奇跡を願って振り返ってみても、ルーダとシェラはピクリとも動かない。
(不公平だ)
頭の中で、ただそれだけを繰り返し呟き続けていた。
と、その時、爆音と振動が大気を揺るがし、呆然と我を失っていたティファイリエルも、さすがにハッとして顔をあげた。
「なんだ!?」
「会議室の方だ。行くぞ!」
レグザに促され、ティファイリエル達は音の源に走った。
なにかを叫ぶ数人の声と、空気を切り裂くのは矢音だろうか。白い煙が角の向こうから漂ってきている。
と、その角から一人の天使がまろび転げながら現れ、膝から崩れるように倒れこんだ。
そこにいち早く駆けつけたイスタが、屈み込んで問いかける。
「どうした。なにがあったんだ!?」
だが、その天使からの答えはなく、イスタはレグザたちに首を振った。
「死んだの?」
ティグの問いに、イスタは再び首を振り、立ち上がった。
「気を失っただけだと思う。けど、時間の問題かもな」
「一体なにが? まさか、地天使が攻めてきたの? でも、下から通じてるのはあのエレベーターだけだって」
アシェはそう言っていた。戸惑うティファイリエルに、レグザが言った。
「階段はない。だが、奴等の攻撃を受けていると見て間違いはなさそうだ」
「でも、どうやって?」
「方法なんて、今更大した問題じゃないですよ。攻撃を受けているなら、迎え撃つだけです」
「その通りだ。行くぞ」
そう言って、レグザがまた全員を促した。
煙のたなびく通路の向こうからは、争いの気配と物音が更に高まっている。レグザ達はそれぞれの黒弓を片手に、走りだした。
ティファイリエルは、最後にもう一度、背後のエレベーターホールを振り返り、倒れたままのルーダを見やった。
この手で殺してやりたいと願った相手は、もういない。
だから、地上に下りた意味を失ってしまったことになる。それどころか、生き延びる意味すら、今は感じない。このビルが自分の死に場所だというのなら、それでもいいと思った。
ただ、できることなら、
(一瞬がいいな)
急所を外して、長く苦しむのは嫌だ。
ティファイリエルが望むのは最早、それだけだった。
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あれからずっと、フィムは考えていた。
あの時、ルーダに言われたことを。
「俺のこと好きだっつっても、女にはなれない程度でしかないんなら、俺のことは諦めて、他に相手を探せよ」
ルーダの言うとおりに諦められるなら、こんなに苦しくなんてない。だけど、それならルーダの望む女になれるかといえば、やっぱりそれはできそうにない。元々、天使は女にも男にもなれるのだから、女になるのも自然だろうとは思うのだが、自分にとっては、それは全く不自然なことなのだ。
自分のアイデンティティは、その多くを、男性体であることに依存しているのかもしれない。男であることを止めたら、それはもう、自分じゃないのだ。
そしてどうすればいいのか。
あれからずっと考えているが、答えはでない。
フィムは、狩人の塔の五十八階にある空き部屋の一つで、窓から眼下に広がる、淀んだ灰色の都市を見下ろして、立ち尽くしていた。窓ガラスに触れる右手からの熱で、ガラスは既に生暖かい。
今、下天使と地天使との間は一触即発。いつ戦いが始まっても、おかしくはなかった。
フィム自身は、地上生まれ。下天使が地上と統治することなど願い下げだったが、かといって、他の地天使と共に、戦いに加わるつもりはなかった。
地天使として武器を取れば、それは真っ向からルーダと対立することになる。どうせ手に入らないのなら、敵としてルーダを斃し、自分も共に命を落とそうか。そう、考えもした。
以前、地上に蔓延る卵人たちを狩る、狩りの前夜、ルーダと待ち合わせした合間に、ルーダを殺して自分も死ぬことを夢想したことがある。その想像は、ゾクゾクするほど甘美なものだったけれど、フィムは、どうしても踏み切れずにいた。
諦めきれないのだ。やっぱり。
何度拒絶されても、どうしても諦めきれない。未練がましさは自分でも嫌になるが、どうすることもできなかった。
だから今も、地天使達のグループに加わることも、ましてや下天使達と共に戦うこともできず、それでもルーダのことが気になって、狩人の塔と呼ばれるビルの中、ルーダのいるであろう最上階に少しでも近くと、その真下の階でこうして成す術もなく立ち尽くしているのだ。
その時、
「煙?」
フィムは、昼尚薄暗い地上の都市の一隅から、空を目指して昇る灰白色の煙を見た。
火事だろうかと見守る内に、都市のそこかしこで煙が上がり、中には、明らかな炎の色をその奥に宿したものまで見てとれた。
そこにきて、フィムはそれが単なる火事ではないと悟った。
(始まったんだ。遂に)
フィムは、窓ガラスに押し当てた手で、ギュッと拳をつくった。
考えている時間は、もうない。行動を起こすなら今しかない。モタモタしていたら、二度と手の届かない場所へ、ルーダがいってしまうかもしれない。
そう思って窓際から離れたフィムは、最上階のエレベーターホールで、今まさにティファイリエルが、ルーダの倒れ伏した横顔に呟いていたことを知らなかった。
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