進化の卵  
4章「争乱の天使」
 
 
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4-11



 大聖堂の二人の門番は、前々からザファイリエルに言い含められていたこともあって、本来ならば立ち入ることはおろか、近づくことすら許されない羽なしの身でも、なにも咎めだてするようなことはなかった。寧ろ、その存在を認めていないかのように、サキの方には目もくれなかった。
 サキは、大聖堂から走りでると、いつもなら細心の注意を払って、暗い路地に逃げこむのをやめ、都市の中心から、外れにある集積場までの最短距離をまっしぐらに駆けていった。
 誰かに見つかることよりも、遠回りして間に合わないことの方が怖い。
 殆ど歩く者のないピカピカの舗装路は、少し前に、多良太と歩いた道だ。その時には、ザファイリエルもいた。今は焼け焦げて、大聖堂の隅にある、あの奇妙な部屋で動かなくなっている。
(あの時はそんなこと、想像もできなかった)
 それを言ったら、こうして同じ道を走って戻ることになることはおろか、自分が本当は、リフェールという名前の天使の体に宿った、別の人間であると思い出すことなど、もっと予想だにしなかったことだ。
 とにかく今は、少しでも早く辿り着こうと、必死に駆けていたサキの頭上で、ふいに強い羽ばたきが聞こえ、続けざまに耳慣れない声の幾つかが降ってきた。
「まだ子供だ。珍しい」
「ホント。ねぇ、なんであんたは下を走ってるの」
「まだ生え揃ってないの?」
「そんなことはないだろ。二週間くらい前にも見たぞ。ここまで成長してるなら、二週間もあれば飛べるようになってて当然だ」
「ふゥん。ならなんで?」
「翼をだしてもいないの。変なの」
 サキは、ギクリとしたのを押し隠し、聞こえないふりで更に足を速めた。相手にしなければ、放っておいてくれるかもしれない。
 だがそれは、少し甘すぎたようだ。
「下を行くにしたって、翼くらいだしてたら?」
 一人の天使が、走るサキの前に立ち塞がって言った。脇を擦り抜けようとするのを、共にいた他の天使達が邪魔をする。
 どの天使も、遮るもののない天上で、白い太陽の光に晒され続けたせいで、髪やその翼同様に、黒い肌をしていた。黒い衣を身につけたその姿は、闇の化身のようだ。サキに話しかける声音は、明るく親しげにも聞こえたが、その心の中は黒い闇が渦巻いているような気がした。
 サキは仕方なく、一旦立ち止まり、相手を睨みつけた。
「そんなの、あたしの勝手だもの。別にいいでしょ。急いでいるのよ、そこをどいて」
「よくないよ。だって、間違えられるよ、羽無しだって」
 親切そうな口調で、ニヤニヤ笑いながらその天使は言った。隣の天使が、白々しいまでの驚き顔をつくる。
「まさか、本当にそうなの?」
 そしてサキは、恐れていた一言を聞いた。
「だしてみなさいよ」
 全部で四人の黒い天使達達は、サキが単に翼をしまいこんでいる物好きなのか、それともだすこともできないのかを確認するまでは、サキに道を譲る気はないようだった。
「羽無し? それとも片羽? よっぽど変な色なの?」
「どれも似たようなものだけど。違うっていうなら見せてごらんよ」
 だが、彼らの願いを叶えるわけにはいかない。見られて恥ずかしい羽はおろか、その背中に羽はない。サキは絶望がすぐ後ろに待ち構えているのを感じながら、それでもキッパリと首を振った。
「嫌」
 サキの拒絶に、天使達は顔を見合わせ、中の一人が、思い切ったようにサキの肩を掴んだ。
「あっ」
 サキが体を捻って逃れるより前に、サキの目の前にいた短い髪の天使が、背中の布地を力任せに引き裂く。
 そこにある白く盛り上がった傷痕に、天使達は目を見張り、蔑みと嫌悪に、整った相貌を歪めた。
「こいつ、ホントに羽が無いんだ」
「だしたくてもだせないのね。嫌だなんて、だす羽もないくせに」
「じゃあ天使じゃないね。天使でもないのに、空に住むのはおかしいよ」
 肩を掴んだ天使の手を逃れ、サキは両手で庇うように自らの肩を抱きながら、ジリ、と後退った。これ以上ここにいたら、間に合わなくなる。なんとか彼らを振り切って、集積場に急がなくては。
 だが、四人の天使達は、サキの正体を知って、このまま放っておく気はないようだった。
「飛べないのにねぇ」
「そうでしょ? 翼がないなら、ついうっかり足を踏み外しただけで、まっさかさまに地面に落ちて潰れて死ぬのよ。それなのに、こんな空の上に住むなんて、不自然だと思わない?」
「例えば、ホラ」
 そう言って、長い髪を一つに束ねた天使が、ふわりと近づいてサキの腕を掴み、突然、空高く舞い上がった。
「こうやって、高いところから落とされたりしたら、お前、どうする?」
 褪めた青い空を貫く高層ビルの最上階の高さで、その天使はリフェールの腕を離した。
「!」
 突然のことに、サキは自分がどうなったのかわからないまま、途中でくるりと回転して、頭からまっしぐらに落ちていった。
 耳元に切り裂かれた風の音がする。
 悲鳴すらも凍りつき、瞬きもせずに迫りくる黒い地面に激突するかと思われた瞬間、
 右足を、掴まれた。
 ガクン、
 と、激しく揺れて落下は止まった。
 だが、今度は足を掴んだ別の天使が、逆さになってぶら下がったサキを、また空高く連れていく。そして再び、手を離し、落ちていく途中で、他の天使がサキの背中を蹴って、落下の向きを変え、別の天使が捕まえて、また飛び上がって放りなげる。
 四人の天使達によって、蹴られ、突き飛ばされ、放り投げられて、サキは声もなく中空で玩ばれた。
 まっすぐな黒髪が広がり、背中を引き裂かれたワンピースが風にはためいた。
 サキは、成す術もなく、息を詰めて、クルクル回る視界を眺めていた。制止の声をあげる暇さえなかった。


 空が、見える。
 刷毛で梳いたような薄い雲が見える。
 白光する円盤が目を眩ませる。
 黒いビルの群れが縦になったり横になったり斜めに見えたりする。
 黒い夜のような地面が見える。
 真っ黒な夜に、吸い込まれて飲み込まれてしまいそうだった。
 本当に、飲み込まれてしまいそうだった。
 飲み込まれて、消えて……





   
         
 
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