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「また会えたでしょう? サキ」
と、多良太が最後に言い残した言葉に、リフェールの心が、震えた。
現と幻の狭間で、遠のいていた意識が、薄氷を踏み砕くように覚醒し、リフェールは目をしばたたかせた。
(サキ? サキ? サキって、あたしのこと? あたしをサキって、そう呼んだの?)
そんな名前は知らない。だって、天使の名前ですらない。
だが、なぜだろう。それはとても正しいことのような気がした。それこそが、本当に。
(だけど、そんなことがある?)
自分の中で渦を巻く、有り得ない映像。それが忘れていた本当の記憶なら?
サキ
(それがあたしの、あたしの……)
名前。
そしてリフェールは、かつて地上でサキという名の卵人だったこと、地上で起こったこと、その全てを思い出した。
石のように動かなかった体が、思い出した途端、激しく震えだす。リフェールは、サキは、両手で自分を抱きしめて、激しい震えを抑えようと、唇を噛み締めた。
多良太は言った。
「約束したでしょう?」
と。
「ぼくらはきっとまた会えるって、約束したでしょう?」
と、そう言った。
『約束、ね。また会える? いっぱい話をしようね。そしてあたし、今度はきっと天使になって、多良太、多良太を乗せてあの空を飛ぶわ。あたしと多良太とルーァと三人で、どこまでだって飛んでいくわ』
(約束したわ。あたしは確かに約束した。だけどあたしは、約束を全部果たしてない。また会えた。話だってできた。だけど、あたしは飛んでない。だって、あたしには羽がないから。だからあたしは、あんなにも羽が欲しかったの? でも、多良太がいなくちゃ。多良太がいないなら、羽だけあっても意味がない。多良太とルーァが……)
ルーァはどこにいるのか。そう考えると同時に、答えが閃いた。
(サフィリエルね。サフィリエルがルーァだったんだ)
だからこそ、初めて会ったはずなのに、あんなに懐かしくて。名乗った時に奇妙な違和感を覚えたのだ。
(あの時、本当は死んでたんじゃないかって思ったのは、間違ってなかったのね)
背中の羽を引き毟られた時以前の記憶が、誰か他人のもののように感じたのは、本当にそれがリアルな自分の記憶ではなかったから。
記憶を残したリフェールという名前の天使は、もういない。
ここにいるのは、その体を借りたサキという名の人間。地上で、天使たちに卵人と呼ばれて蔑まれ、狩人と称する天使に捕まって、狩られ、殺された。
それは辛い人生だったけれど、リフェールという天使ほど酷くはなかった。その子は結局、サフィリエルにも多良太にも出会うことなく、幸せと感じることは一度もないまま、自分を産んだ天使に殺されてしまった。
(可哀相に)
サキは、器に残る記憶だけになった小さな天使に同情した。その子に比べたら、自分の方が数倍幸せだった。
大切な誰かがいて、その誰かに同じように大切に思ってもらえる。こんな幸せなことはないのだから、それ以外の辛いことなんて、どうってことはない。
だけど今、その大切な相手を、自分のせいで失おうとしている。
サキは、改めて今の状況に、絶望した。
一度は逃げることを決意したが、一歩遅かった。多良太はザファイリエルに連れていかれてしまった。もう、手出しはできない。全部、手遅れだ。
サキは、きつく目を瞑った。
(だけど今更、あの熾天使に媚びへつらって、羽を植えつけてもらったからってなんになるの? 多良太は連れ去られて、ルーァにはもう赦してもらえっこない。 あんなに欲しかった羽が、あの約束を果たすためだったなら、あたしのしたことは、まるで意味がなかった。違う。無意味なだけならまだしも、最悪なことをしたんだ)
サキは、自分の愚かさ加減に、吐き気がした。
自分だけでなく、多良太とルーァの二人を死かそれに近しい場所まで追いやったのが、自分の愚かな振る舞いのせいだと思うと、今すぐ自分で自分を殺してしまいたかった。
だが、ここで自分だけ死を選ぶのは、もっと愚かで、赦されないことだと思った。
(あたしのせいなんだもの。今更、羽をもらったって意味がないんだもの。ちゃんと意味のあること、しなくちゃ駄目だ)
サキは、閉じていた目を開けた。目の前にある閉ざされた扉を見つめ、一人頷く。
(ここにいたって駄目。せめて、できるだけのことをしなくちゃ)
ふと、宇宙の闇のように冷たい目をした熾天使の姿が頭を過ぎる。ここを出て、例えば多良太を逃がそうなど、彼の意に反することをすれば、恐らくあの天使は自分を殺すだろう。いとも簡単に。
だが、それが定められた運命だと知っていたとしても、躊躇うつもりは、もうない。
(あんな天使なんて怖くない。多良太とルーァがいないなら、全部の天使を殺せるもの。力さえあれば、全部の天使を殺せるほど、あたしは天使を憎んでいたんだもの。怖くなんてない)
天使に一度は殺された身だ。今更、恐れたりはしない。
怖いのはただ、もう一度あの二人を失ってしまうことだけだ。
全部思い出した今になっても、二人を裏切ったまま、怖がってなにもせずに、二人に永遠に決別されたとしたら、それが一番怖い。
(だから怖くなんてないわ)
サキは手をつき、立ち上がった。
背筋を伸ばし、顔を上げて、躊躇うことなく扉に手をかける。
(多良太を探そう)
ルーァのことは、今すぐどうこうしようとはしないだろう。だが、連れ去られた多良太は、今もなにをされているかわかったものではない。
サキは扉を開け、ザファイリエルに招かれたのでなければ、足を踏み入れることすら許されない黒い大聖堂の中を、多良太を探すために歩きだした。
とはいえ、ザファイリエルの執務室以外知らず、多良太がどこへ連れていかれたのか、まるで見当もつかない。闇雲に走り回って探したところで、運よく見つけられる可能性は低いだろう。遠ざかる気配を感じた気がするが、実際に見たわけではないし、どっちの方角に向かったのかもわからない。やはり、一つ一つ、扉を開けて確認するしかないだろう。
(誰かに見つからないようにしなくちゃ)
羽のない自分が大聖堂をうろつくことを、他の天使に許してもらうよう、ザファイリエルに口添えしてもらうのは、今は無理だ。
だがすぐに、後でそれがバレようと、どうでもいいんだと思い直した。その時には、多良太とルーァと無事に逃げだしているか、それとも、失敗して殺されるか、それと同じくらい酷い状況になっているだろう。
いずれにしろ、今、止められなければどうだっていい。見つからなければ、時間を無駄にすることもないだろうから、見つかりたくはないけれど。
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