進化の卵  
4章「争乱の天使」
 
 
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4-8



 やがて、ザファイリエルが足を踏み入れたのは、ラグエルが予想した通り、無人のモニター室だった。モニター室で件の画面に眺め入るザファイリエルの背中を見つめ、ラグエルは、ザファイリエルの言葉を待った。
 その目で、スリープカプセルを操作して、卵を冷凍睡眠状態から呼び覚まそうとしているサフィリエルを見た今、それを阻止するべく、自分に命を下すはずだ。
 だが、問題の画面を見つめたまま、ザファイリエルは振り向きもせず、なにを言おうともしなかった。
 とうとう、ラグエルは痺れをきらし、ザファイリエルの物言わぬ背中に声をかけた。
「それで、どうしますか? いっそ、直接行って、奴を殺してもいいんじゃないですか?」
 そうすれば、堂々と殺しを愉しむこともできる。ラグエルの声音には、かすかな期待が滲んでいた。
 ザファイリエルは、ラグエルに背を向けたまま、妙に平坦な口調で言った。
「いや。放っておけ」
「放っておく!? なぜです!?」
 ラグエルは驚愕のあまり、後ろに控えるのも忘れ、モニター前のコンソールに片手をつき、身を乗りだすようにしてザファイリエルの顔を覗き込んだ。
 ザファイリエルの整った容貌は、氷の彫像のようだった。非難するようなラグエルの視線を受けても、まるで動じた様子もない。ピクリとも表情を変えることなく、淡々と答える。
「あれでいいんだ」
「いい!? なにがいいんですか!? あのままにしたら、おかしな連中が次々生まれてきますよ!」
 と、今も卵を孵すべく、作業を進めるサフィリエルの姿を捉えた画面に、指を突きつけた。ザファイリエルは、ようやくラグエルに顔を向け、うっすらと微笑みさえ浮かべて言った。
「それで、いいんだ」
「……どういうことです」
 ラグエルは、冷たい恐怖が、ジワリと足元から染み込んでくるのを感じた。その冷気は、宇宙の深淵のようなザファイリエルの瞳から吹き込んでくるようだった。
 ザファイリエルが、ゆっくりと微笑みを深める。
「新しい種が生まれたということは、それまでの種が、最早、種としての限界を迎えたということじゃないか? 食い尽くすなら食い尽くしてもらおうじゃないか。今頃は地上でも最初の卵が孵ろうとしているはずだ」
 ラグエルは今、全身を包みこんだ恐怖に目を見開き、わずかに身を引いた。
「自分の種族を裏切ったのか! イカレてる!」
 と、ザファイリエルの黒い瞳に、どこか哀しそうにも見える諦観の表情が過ぎった。全てを諦め、虚しさしか残っていない、とでもいうような。
「狂っているのは、この世界の方だ。自分達でもそれがわかっているから、既に狂って壊れた種族として、新たな種に駆逐されるのを恐れて、あんな集積場なんて造ったのだろう? それも随分と前に。それだけ前から壊れていたんだ。無駄にあがいてその時をいくら遅らせたところで、限界はとうに超えている。そろそろ終わりにしてもいいんじゃないか?」
「それは貴様が決めることじゃない!」
 叫んだ時には、体が勝手に動いていた。
 斜め下から、右の手刀でザファイリエルの脇腹から顎の下まで斬りつける。その手は赤黒い炎が、手首から先全体を覆っていた。
 ザファイリエルは避けなかった。代わりに、白い光の塊を、ラグエルの腹部に叩きつけた。
「!」
 ラグエルが慌てて身を捻る。直撃はしなかったが、脇腹に垂氷が突き刺さったような衝撃を受け、ラグエルはバランスを崩して足をもつれさせた。
 だが、背後に椅子があったおかげで、床に倒れこむのは避けられた。丁度うまく椅子に納まったことを驚くより先に、ラグエルは右手に新たな炎を宿す。その手刀を受けてよろめいたザファイリエルに、左手でひじ掛けを掴んで弾みをつけ、右手の炎ごと体当たりした。
 ザファイリエルはまともに受けて、背中から床に倒れた。肺から空気が吐きだされる、ヒュッという音がした。
 ラグエルは、右手をザファイリエルに押し付けたまま、自分も一緒になって床に転がった。ザファイリエルが体勢を整える前に、左手と両足を使ってザファイリエルを押さえこむ。渾身の力を込めて、何度も繰り返し、炎の塊を叩きつけた。肉の焦げた臭いが漂い、組み敷いたザファイリエルの体がピクリとも動かなくなってからも、繰り返し叩きつけた。
 ザファイリエルの顔は見なかった。顔を見て、あの二つの黒い宇宙に見据えられたら、途端に凍りつき、相手に反撃の糸口を掴ませてしまうだろう。
 ザファイリエルの黒い衣が燃え、その火が自らを焼きそうになって、ラグエルはようやく炎を生みだすのをやめ、ふらつきながら立ちあがった。
 肩で荒い呼吸を繰り返し、ラグエルは、ギラギラした暗い瞳でザファイエルを見下ろした。
 炎は今、ザファイリエルの漆黒の翼に燃え移ろうとしていた。
 天上第一位の天使の証である、三対の翼に。
 そして、ザファイリエルの顔に目を遣ったラグエルは、思わずゾッとして、陽に灼けた肌を青ざめさせた。
 ザファイリエルは笑っていた。
 それは確信と満足の笑み。自らが導いた滅びに対する確信と満足の笑いだった。
 だが、宇宙のように冷たかった双眸が、空虚な黒い穴と化しているのを目にして、ラグエルは恐怖の呪縛から解き放たれた。どれほどの威圧感、影響力を持っていたとしても、既に過去のもの。今はなんの力も持たない。
 結局、生き残った者が勝利するのだ。
 とはいえ、評議員の主要メンバーで、最高位の天使の一人を手にかけたと知れたら、厳しい処罰が下されるかもしれない。羽を斬られ、権力の中枢からは永久に追放されてしまうかもしれない。それなら、寧ろここで倒れた方がマシだったかもしれない。
 そこまで考え、いや、と思い直した。
 相手は重大な種の裏切り者。殺されて当然だ。その上、集積場の卵が孵化するのを未然に防げば、一気に昇級、評議員の一員にさえなれるかもしれない。
 ラグエルは、唯一の白に満ちた画面に目線を転じた。
(あいつを殺して、孵りかけた卵を燃やせば……)
 決意を漲らせて、ラグエルは右の掌を天に向け、自らの炎で焼けた手を見下ろした。ヒリヒリと刺すように痛むが、耐えられないほどではない。ザファイリエルの光で撃たれた左の脇腹も、熱を帯びて重く痛んでいたが、動けなくなるほどではない。
 今はいい。今はどんな痛みも気にしてはいられない。
 ラグエルは、最後にもう一度、ザファイリエルの屍に目を落とした。
 ザファイリエルの体を焼いていた炎も、今は既に消えている。結局、三対の内、一対を半ばまで燃やしたところで力尽きたようだ。あまりにも激しく燃えて、この大聖堂までも燃やすことになったら、例え種族の滅亡を阻んだ功績があっても、叱責を受けることは免れなかったろう。
 ザファイリエルを殺す場面を空想するのが彼の日課だったが、こんな形で、こんな風に殺すのを想像したことはなかった。今思えば、もう少し愉しめばよかったかもしれない。だが、あの時はそんなことを考える余裕すらなかった。
(それでよかったのかもしれないな)
 無我夢中で余計なことを考えなかったからこそ、ザファイリエルを殪すことができたのだろう。余計なことを考えれば、隙をつくる。だから、あれでよかったのだ。
 ラグエルは胸の内で呟くと、焼け焦げた臭いの充満するモニター室を後にした。
 ザファイリエルのことは、その内誰か見つけるかもしれないが、滅多に訪れる者のない場所。自分が全部の仕事をやり遂げるまで、見つからない可能性の方が強かった。見つからなければ、手柄を横取りされることも、手遅れになることもないだろう。だが、急ぐにこしたことはない。
 ラグエルは、歩みを速めた。




   
         
 
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