進化の卵  
4章「争乱の天使」
 
 
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4-7


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 卵の海の片隅で、サフィリエルは彫像のように動かない。思考も麻痺して、なにも考えられなかった。
 そうして、どれくらい経っただろうか。白く痺れた頭の中に、多良太の声が閃いた。


「サフィリエル、リフェールを赦してあげてね」


 多良太が言っていた「リフェールの裏切り」は、リフェールが自ら告白した通りなのだろう。それを赦すかと問われれば、赦すに決まっている。もとより、リフェールは犠牲者だ。
 第一、自分はなにをした?
 なにもしなかった。なにもしようとしなかった。あと少し勇気をだして、多良太やリフェールを問い詰めてさえいれば、こんなことにはならなかったのではないだろうか。
 二人に拒絶されるのが怖くて、なにも気付かないふりをして。言われるままに口を閉ざして。
 その結果、失ってしまった。とてもとても大切な二人を。
 リフェールの裏切りが罪だというなら、なにもせずに逃げていた自分の罪の方が何倍も重い。
(そうだ。私の方がずっと……)
 二人に赦しを乞うのは、自分の方だ。
 こうなってしまった以上、もう赦してはもらえないだろうが。
 だが、まだなにかできるのなら。まだ自分に、できることがあるのなら。
 サフィリエルは、多良太とリフェールが出て行った、外界へと通じる扉に目を遣った。
 あの扉を開けて、出て行くことができたなら、この命を賭けて二人を救いだすことができるだろうか。宇宙の闇のようなあの熾天使から、奪い返すことが?
(相手が誰だろうと関係ない。多良太とリフェールがいないのなら、生きている意味などない。死んだも同じなら、なにを恐れることがある?)
 サフィリエルはゆっくりと外への扉に近づき、取っ手を掴んで強く引いた。
 扉は、ピクリとも動かなかった。
 だがもう一度、今度は心の内に扉が開くことを念じながら、引いた。
 扉は開かなかった。
 泥のような失意がサフィリエルを包み、サフィリエルは、力なく扉を叩いた。
(なにもないのか? 私にできることは、もうなにもないのか?)
 多良太とリフェールが連れ去れていくのをむざむざと許し、ただここで立ち尽くすことしかしなかった。なにもかもが、今更なのだろうか。
 サフィリエルは、白いローブの裾を翻し、隣の小部屋に急ぎ戻った。 素早く部屋の中を見回して、なにか使えるものはないかと探す。
 あの固く閉ざされた扉を、叩き壊してでも外へでよう。例え、その先の通路で、セキュリティに打ち倒されたとしても、それを恐れて、ここで安穏と過ごすことなどできるはずがない。
 だが、恐ろしく頑丈そうな扉に、少しでもヒビを入れられそうなものさえ、なに一つなかった。
 椅子やテーブルやベッドは、全て木製。簡単に跳ね返されて、壊れてしまうだろう。
 と、その時、部屋の隅に置かれた、四角いケースに目が留まった。
 それは、多良太の卵の入っていた、あの凍結スリープカプセルだった。透明なカバーの下に、金属製の台がついている。
 サフィリエルは躊躇いもなくカプセルを持ち上げると、急ぎとって返し、金属部分を、力の限り扉に打ちつけた。
 ギィン、
 返ってきた音は、鋭い金属音だった。
 サフィリエルは金属の台を打ちつけた場所に目を凝らし、右手の指先で触れてみた。扉表面の白い塗装が削れ、天上の都市を染める黒の色が現れていた。だが、それだけだ。塗装の下は、毛筋ほどの傷跡さえついていなかった。
(これでは、無理だ)
 サフィリエルは、他になにかないか首を巡らせた。
 だが、ここは卵の集積場。あるのは今叩きつけたのと同じ、無数のスリープカプセルだけだ。やはり、力技で扉を開けるのは無理なのだろうか。
 サフィリエルが絶望に押し流されそうになったその時、再び多良太の声が脳裏に響いた。
 それはまるで、導きのようだった。


「ここにあるこの卵全部、いつか孵る時がくるのかなぁ」

 
 白く煙ったように見える、果てのない卵の海を見渡す、サフィリエルの灰色を帯びた青い瞳に、決意の色が点った。


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「くそ、なんてことだ!」
 ラグエルは驚愕し、動揺し、憤慨して、モニター前のコンソールに掌を叩きつけた。
 ザファイリエルに様子を見てくるよう言われたラグエルがいるのは、大聖堂の一階、奇妙に薄暗い一隅にあるモニター室だった。日頃常駐する者はなく、その存在すらあまり知られていない場所だが、彼の上司であるザファイリエルは、頻繁に訪れているらしい。ラグエル自身は、これで二度目くらいだ。一度目は、他ならぬザファイリエルに案内され、どのモニターがどこの映像を映しているのかを説明された。地上に下りていた座天使のアルシェレイムが、地上で見つかった進化の卵について報告しに訪れた日のことだ。
 それ以来になるが、縦横に幾つも並んだ画面の中で、見るべきものはすぐにわかる。他の映像とはひどく対照的な、白い世界がそこにはあるからだ。
 白い世界を映す唯一の画面を凝視して、ラグエルはもう一度、「なんてことだ」と呟き、黒いレザー張りの椅子から立ち上がった。
 そしてラグエルは、モニター室を後にすると、ザファイリエルの姿を求めて廊下を足早に歩いていった。おそらく、まだあの部屋にいるだろう。
 目的の場所に辿りつく寸前、ラグエルは探していた姿を前方に見つけた。つい先刻、多良太を連れていった部屋からでてきたばかりのようだ。
「ザファイリエル様!」
 ラグエルの呼びかけに、ザファイリエルは訝しげに眉をひそめた。
「なにを慌てている?」
「それが……」
 ラグエルは言いかけ、ふと気になって尋ねた。
「あの……子供は? どうしました?」
 多良太のことをなんと呼べばいいのか迷ったせいか、口調がどこかぎこちない。
 ザファイリエルは冷笑的に言い捨てた。
「連中に預けてきた。あいつらがどう調べまわしたところで、なにか掴めるとは思えないがな」
「そうですか」
「それでどうした」
 ラグエルはハッと我に返り、口早に言った。
「集積場の卵が!」
「卵がどうした?」
「あの男、他の卵も孵す気です」
 勢い込んで言ったラグエルの言葉に、ザファイリエルは顔色一つ変えることはなかった。
 まるで当たり前のことのように、
「そうか」
 と頷いた。
 ラグエルは、自分の言葉の意味がわからなかったのかと、もう一度、今度はゆっくりと繰り返した。あまりにも衝撃的な内容に、理解の範疇を超えたのかもしれない、とさえ思って。
「集積場の卵が孵れば、そこからやはり、あれと同じようなモノが生まれるかもしれません。なんとかしなければ……!」
「そうだな」
 ザファイリエルはどうということもないように言い、その反応に戸惑うラグエルを置いて歩きだした。ラグエルは、三対の翼を誇らしげに生やした、夜の闇のように黒い背中に、慌てて追い縋った。
「全て孵ってしまってからでは手遅れです。その前になにか手を打たなければならないのではないですか!?」
 だが、ザファイリエルは答えず、黙々と歩き続けるだけだ。
「ザファイリエル様!」
 焦燥を滲ませてその名を呼んだ時、ラグエルは、口を閉ざしたままのザファイリエルが向かう先が、先ほど自分が後にしたモニター室かもしれないと、ふと思った。ザファイリエルの執務室とは方向が違う。ザファイリエルを探して、自分が歩いてきたばかりの道を、今、逆に歩いている。
 やはり、ザファイリエルも、その態度に反して、内心は激しく動揺しているのかもしれない。答えないのではなく、答えられず、一刻も早く自分の目で、事実を確かめたいだけなのかもしれない。
 そう思ったラグエルは、それ以上なにも言わず、黙ってザファイリエルの後を追った。





   
         
 
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