******************************************************
地上で、下天使と地天使の激しい戦いが幕を開けた頃、現と幻の狭間で我を失ったリフェールを残し、閉ざされた控えの間の扉を肩越しに振り返った多良太は、心の内に呟いた。
(リフェールに、ぼくの言葉は届いたかな)
自分の言葉で、リフェールは思い出してくれただろうか。
サキ
と、そう呼ばれていた時のことを。
多良太は全部憶えていた。卵の中にあっても尚、忘れてはいなかった。だからずっと叫んでいたのだ。
ぼくは、ここにいるよ。
と。
生まれた瞬間に、自分もそれまでの記憶を手放してしまったが、日々を重ねる毎に少しずつ思い出した。だから二人も、きっとそうなると思ったのだ。例え今は忘れてしまっていても。それを信じて、口を閉ざした。
それは間違っていたのだろうか。
「なにをしている、さっさと来い」
ラグエルが苛立たしげに多良太の腕を引き、多良太は、リフェールが一人残された部屋の扉から、引き剥がすようにして視線を前に向けた。ザファイリエルが、数歩前から、宇宙の闇のように冷ややかな視線を多良太に投げかけている。多良太は、その目を見ないで済むように、少し俯き加減に歩きだした。
(ぼくは、間違っていたのかなぁ)
自分自身へそう問いかけるのは、これで何度目だろう。
また会えるって約束は果たしたから、きっといつか、サフィリエルもリフェールもあの日のことを全部思い出して、全部の約束を果たせる日が来る。
そう信じていたけれど。
今、サフィリエルは世界から目を背け、リフェールはかすかな約束の記憶で、道を誤っていたことを知った。
もう手遅れなのだろうか。
前を行く黒い天使が、自分を解放する気がないことはよくわかっている。だが、この後どうするつもりなのかは、正直、よくわからなかった。
多良太が、時折とはいえ心を読むことを知ったからか、ザファイリエルはこれからのことを敢えて心に浮かべまいとしていて、それは見事に成功していた。
リフェールも、自分の本当の気持ちを必死で隠そうとしていたが、あまり上手くはなかった。どうしても、隠し切れずにポロポロと零れ落ちていた。
ザファイリエルの心は、表面はドロリとした暗黒で、ゾッとするような言葉が瞬間の稲光のように閃くが、その奥は、硬質なガラスのようで、跳ね返されて読み取ることができなかった。こうした心の障壁は、生まれついてのものなのだろうか。
多良太に背を向けて、先を静かに歩くザファイリエルの黒い姿に、多良太は怯えていた。
手遅れかもしれない。
ザファイリエルが自分を導くのは、ただ、破滅の道かもしれない。
だがそれでも、一縷の望みを、多良太は捨ててはいなかった。
どうすればいいのかはわからない。わからないけれど、なにもかもうまくいく可能性は、ゼロじゃないと信じたかった。
絶望するのは、全部終わってからでいい。
希望だけは、最後まで持ち続けていたかった。
ザファイリエルに誘われて足を踏み入れたその部屋は、ひどく乾いて冷たい、灰色の部屋だった。黒くないというだけでも珍しかったが、そこにあるものは、もっと奇妙だった。
暗灰色の細長いベッドが部屋の真ん中にあって、その真上には、大きな昆虫の複眼のようなものが天井からぶら下がっている。正面の壁一面は暗いディスプレイに覆われ、小さなモニター付きの四角い機械がすぐ側にあった。扉から入って右手には、元は透明だったのだろう。今ではすっかり白く曇った、ガラス窓のついた大きな戸棚があった。
そして、なによりも存在感があるのは、部屋の左側、大きな円筒型のガラスケースだった。鈍色の基底部からは、無数のチューブやコードが延びている。
ガランとして人気はないが、埃や塵の積もった様子はなく、ごく最近も誰か出入りしているようだった。
その部屋に足を踏み入れた途端、多良太は全身を総毛立たせて、身震いした。そのただならぬ様子は、多良太の腕を掴んでいたラグエルにも伝わり、ラグエルは訝しげに多良太を見下ろした。
多良太の白い肌は紙のようで、全身の血が流れでてしまったようだった。青く澄んだ瞳は凍りつき、今にも砕けてしまいそうだ。金色のたてがみは、チリチリと電気を帯びて、逆立ち、発光しているかに見えた。
多良太は、息ができなかった。
頭の中で、無数の羽虫がワァンワァンと音をたてている。足元にぽっかりと真っ暗な穴が開いて、泥のような暗闇に、ズブズブと飲みこまれていくような気がした。嵐の風が、正面から吹きつけて、どこかへ飛ばされてしまいそうだ。
風は、部屋の真ん中から吹いてくるようだった。
そして風には、声があった。
明確な言葉ではない。感情の残滓のようなものだ。
一番強いのは、恐怖。それから痛み。怒り。嘆き。諦め。
そんな姿なき声に飲み込まれ、多良太は立ち竦んだ。
これは記憶。
この灰色の部屋に染みついて、こびりついて、消えない記憶。
と、記憶の風に飲み込まれて凍りついた多良太の耳に、夜のように深い声がジワリと染みこんで、多良太は瞬きと共に声を見遣った。
「ここで少し、調べさせてもらう」
その瞬間、ほんの一刹那だったが、多良太は確かに、ザファイリエルの声にならない言葉を聞いた。ザファイリエルの障壁が弱まったというよりも、灰色のこの部屋の中でぐるぐると渦を巻く、記憶の風に宿る意志が、多良太のために聞かせてくれたような気がした。
多良太は、ハッと目を見張り、ザファイリエルを驚きの表情で見上げた。
「あなたは……」
思わず口を開いた多良太を遮るように、ザファイリエルが言った。
「ラグエル、ここの連中を呼んでこい。その後は、集積場の様子を確認してくるようにな」
「わかりました」
ラグエルは愛想もなく頷き、ようやく多良太の腕を離して部屋を出て行った。
ザファイリエル一人と残された多良太は、未だ驚きの表情を浮かべ続けていた。掴まれていた腕の痛みにも、それが離されたことにも、気付いていないようだった。
「少し、話そうか」
ザファイリエルが言った。
多良太は、黙って頷いた。
|