「応じると思う?」
ふいに傍らで声がして、アイカはチラッと目を遣った。
ナスラが、黒い長弓を自らの肩にもたせ掛けてアイカを見ていた。アイカは鼻先で笑った。
「まさか。投降したところで、弄ばれて嬲り殺されるだけだってことくらい、わかっているだろうよ」
捕虜として最低限の扱いを受けることなど、望むべくこともないことは、ファルもわかりきっているはずだ。勿論、逆の立場でも、そんな温情は端から期待しない。
「ああ、やっぱり? 残念だな。ファルって結構美味しそうって、前から思ってたんだよな」
カニバリズム嗜好のあるナスラの言葉は、そのままの意味だが、その趣味のないアイカには、どうでもいいことだった。
「とどめを刺した後の死体でも貰ったらどう?」
「よせよ、死体なんて気持ち悪い」
カニバリズム趣味の者の殆どは、死肉を食することを厭わないが、ナスラは決して死体の肉には手をださなかった。
生きて、動いて、暖かい、恐怖と苦痛と絶望を撒き散らす相手に食らいついて、肉を引き千切り、その血を啜らなくては意味がない。単に同族の肉を喰らうのではなく、その感情と魂そのものを喰らってこそ、最高の悦びを得られるとナスラは思っていた。
「生きてても死んでても、大差ないと思うけどね」
興味なさげにアイカが言った時、ファルが予想通りの答えを返すのを聞いた。
「断るよ。どうせ死ぬなら、戦いの中で死にたいからね」
「それは残念。この状況では、戦いというよりリンチになるが、まぁそれも仕方ないな」
そしてセルドの言葉通どおり、ファルが最後の抵抗を試みようと弓を構えた途端、無数の炎の矢がファルたちに降り注ぎ、狩人の塔玄関ホールの戦いは、地天使達の勝利で終結した。
戦いの終わったホール内には、夥しい数の天使の屍と焦げた臭いと甘い血の匂いが充満していた。芳しいその香りを胸いっぱいに吸い込んで、アイカはホッと息をついた。満足そうな吐息だった。
「あっちはどうなったのかしら」
アイカに歩み寄りながら言ったのはキリカ。その目は、最上階で止まったまま動かないエレベーターを見つめている。
「上にいったまま動かないってことは、返り討ちにあったのかもしれないね」
アイカの言葉に、キリカは口の端を歪めて首を傾げた。真っすぐに伸びた黒髪が、白い華奢な肩を滑り落ちた。
「どうかしら? 案外、抱き込まれちゃったのかもよ」
「まさか! あのシェラだよ?」
「だって、あのエレベーターに乗ってたの、ルーダよ」
「ルーダ? 見たのかい?」
「チラッとね」
アイカはちょっと考え込む様子を見せたが、それでもやっぱり有り得ないと首を振った。
「だとしても、シェラがルーダに遅れを取るとは思えないし、シェラはあの男を嫌っていたはずだよ」
「どうかしら?」
キリカは、意味ありげにまた首を傾げた。
「違うっていうのかい?」
「さぁどうかしら。少なくとも、他の連中とは違った感情を持ってたみたいじゃない?」
「やけに詳しいな」
薄ら笑いを浮かべて、揶揄するようにナスラが言った。
キリカは、キュッと眉を吊り上げ、一瞬、ナスラを睨みつけたが、すぐに何事もなかったような表情を取り戻した。
「あの二人が、長い事ごちゃごちゃやってたのは周知の事実じゃない。嫌いだって感情だけなら、もっと早く遠ざけるなり殺すなりしててもいいじゃない。それをしないんだもの、嫌いだけじゃないってことでしょ」
「まぁ、ちょっと複雑な感情はあるのかもしれないけどね。ただ、ルーダになにか言われたところで、それに従うのはシェラのプライドが許さないだろうよ。だけどあんた、随分と絡むね」
キリカのしつこさに少し辟易して、アイカは眉をひそめた。
と、ナスラがこれみよがしな含み笑いを漏らした。
「なによ!?」
噛みつくように言ったキリカに、ナスラは更に笑みを深めた。
「お前は、シェラにさっさとルーダとの関係にケリをつけてもらって、ルーダがシェラに付き纏うようになってから苛々しっぱなしのフィムが、早く落ち着けばいいと思ってるだけなんだろ?」
ナスラの直截さに、キリカは一瞬怯んだ。だが、すぐに気を取り直し、挑むような光を瞳を宿した。
「そうよ。悪い?」
「悪くはないさ、悪くはね。けど、あいつはもう駄目だろ」
笑いながら言ったナスラに、キリカは唇を噛みしめた。
「二、三日前から、なんか思い詰めた顔してるよ。今回のゴタゴタの中で、ルーダと差し違えて死んだりしそうな感じだな」
「だけど、どっちの側にもついてないわ」
フィムは、彼らと同じ地上生まれの天使だった。
地上を統べるために下りてきた下天使にも反感を抱いているようだったが、今回の争いに、どちらの側としても加わっていなかった。殆どの狩人が、どちらかに組して戦うことを決めた中、あくまで中立のフィムは、稀有な存在となっている。
フィムがルーダに想いを寄せていることを知っている者達は、完全に下天使側についているルーダに敵対することも、地天使の立場と感情を捨ててまで味方することもできないせいだろうと噂していた。
「そんな気力もないんだろ。あの顔、見たか? あれは死相だよ。もう駄目だね」
ナスラはそう言って、面白がるようにニヤニヤと笑った。
キリカの中から、燃え立つような殺気が膨れあがって、弾けそうになった時、アイカがうんざり顔で口を挟んだ。
「もういいよ。とにかく、シェラが失敗したならしたで、次の手を打たないとね」
「その通りだな」
声を振り返ると、セルドが数人を引き連れてアイカ達に歩み寄ってくるところだった。
セルドと共にいる者以外は、ホール内を巡って息のある下天使狩人にとどめを刺し、怪我をした地天使の狩人を一カ所に集めている。
「セルド」
その名を呼んだアイカに軽く頷きかけ、セルドが続けて言った。
「シェラがエレベーターに乗っていったまま戻らないというのは、本当なんだな?」
「本当だよ」
アイカが頷くと、セルドは難しい顔でエレベーターに目を遣った。
「未だ止まったまま降りてくる気配がないということは、奪えなかったんだな」
「可能性が消えたわけじゃないと思うけどね」
シェラがルーダに返り討ちにあったとは信じられないアイカはそう言ったが、セルドはもはや、直通エレベーターを奪い取ることは不可能に近いと思っているようだった。
「だが薄い。次の策だ」
セルドの念頭には、既になにか考えがあるのだろう。まだあちこちで燻り続ける灰色の煙越しに玄関ホールを見渡して言った。
「戦闘可能な者の人数を把握したら、上に行くぞ」
「上? どうやって?」
最上階へ通じるエレベーターが使えないのにと、キリカが首を傾げた。
「直接は行けなくともな、たどり着く方法はある」
セルドは意味深長に言って、少し、笑った。
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