シェラは、そのドアが開くと同時に、エレベーター内に炎の矢を放った。そのまま、駆ける速度を落とさず、自らもわずかな隙間から中に飛び込む。
「おっと」
飛び込んだ瞬間、中にいた者のあげた暢気な驚きの声に、シェラは凍りついた。
エレベーターの中にいたのは、ルーダ、だった。
シェラの射ち込んだ炎の矢は、正面の壁に突き刺さって火花を散らしたが、操作パネル前にいたルーダには、掠りもしなかったようだ。
ルーダは、エレベーターの中から玄関ホールの様子を一瞥すると、素早くパネルを操作して、ドアを閉じ、上昇のボタンを押した。エレベーターの箱は、一度大きくふるえた後、軋みながらゆっくりと、再び最上階を目指して昇りはじめた。
それから、飛び込んで自分を振り仰いだまま動きを止めたシェラに、ルーダは嬉しそうに笑った。
「シェラ、やっと俺の胸に飛び込んでくる気になったのか?」
ルーダのからかうような口調に、シェラは途端に我に返り、強い視線でルーダを睨みつけた。
「ふざけないで。エレベーターを止めなさい」
「止めて、二人きりでなにしようか?」
ルーダは、ニヤニヤ笑って首を傾げた。
シェラの右手に、炎の花が咲く。
「あんたの下らない戯言に付き合ってる時間はないのよ。死にたくないのなら、今すぐエレベーターを止めて」
シェラはルーダに向けて弓を構え、炎の矢をつがえた。
それでも尚、ルーダの顔には笑顔が浮かんでいた。できるものならやってみろと言わんばかりのその笑顔に、シェラはカッと頬が火照るのを感じた。
シェラの右手から、炎の矢が離れる。
だが、その矢は急所を外れ、ルーダの左肩を焼いただけだった。ルーダは、左肩に突き立った炎を無造作に掌で叩き消し、大仰に眉をひそめて首を振った。
「シェラ、シェーラ、それじゃ駄目だ。俺を殺せないお前じゃ魅力半減だよ」
シェラがこの距離、この位置で、一撃で仕留められないはずがない。それができないのは、ルーダに命を救われたことがある、という思いのせいなのか。
「バカにしないで。殺せるわ、あんたなんて。今のはただの威嚇よ」
「威嚇? 他のヤツが相手でもそんな真似するか? しないよな、お前は」
「自分は特別だとでも言うの? 自惚れないで」
シェラの右手に、先ほどよりも赤く激しく輝く炎の花が咲き、シェラは再びそれを黒い弓につがえた。
「さぁ、これで最後よ。あんたが止めないのなら、あんたを殺してあたしが自分で止めるだけのことよ」
「じゃあ、なんですぐにそうしない? なぁ、シェラ。俺があの時お前を助けたのは、お前に負い目を持たせようと思ったからじゃないぜ」
まるで哀願するかのようなルーダの表情に、背中の傷跡が、ズキンと痛んだ。有り得ないはずのその痛みに顔をしかめ、シェラは斬りつけるように叫んだ。
「あんたに、負い目なんかないわ!」
「なら、あれ以来、俺を避けるのはどうしてだ?」
「最初っから、あたしとあんたは仲良しなんかじゃなかったはずよ」
シェラの言葉に、ルーダは思わず口元を緩め、それから、見たこともない真剣な眼差しでシェラを見つめた。
「なぁ、シェラ。きっとこの争いが終わって、万が一また狩りにでられたとしても、今までみたいにはいかないよな、きっと」
「だったら、なに。あの賭けはなかったことにしようっていうの?」
「そうだなぁ。その方がいいのかもしれないな」
「自分が勝てそうにもないからって、逃げるのね」
侮蔑の色をたっぷり含んだシェラの黒い瞳を見返して、ルーダは少し笑った。
「そういうとこは、お前らしいよな」
そしてルーダは、左の掌を上に向け、そこに、赤く輝く小さな光点を宿した。それは、ルーダがシェラの周りに現れてから、初めて見る光景だった。
シェラは一瞬、驚きの表情を浮かべ、それから挑みかかるような目でルーダを見据えた。
「あたしを殺すの? その前に、あんたの脳味噌、あたしの炎で焼き尽くせるわよ」
既に構えていた矢をルーダの額に合わせて、シェラが言った。
ルーダは笑って、赤い光点を、瞬時に天井を焦がすほどの大きさの炎の柱に変えた。それはまるで、一振りの剣のようだった。
「!」
見たことのない炎の剣に、思わずシェラが息を呑んだ瞬間、ルーダは素早く炎の剣を掴み、シェラが我に返るより先に、シェラの炎ごと、黒檀の弓に斬りつけた。
炎の剣は、シェラの弓を真っ二つに切り裂き、ブツリと切れた弦から離れた炎の矢を、叩き伏せるようにして振り下ろされた。
カラン、と、切り落とされた弓が、くすんだエレベーターの床に落ちて音をたて、焦げた木の臭いが漂う。
ルーダが手にした炎の剣は、幻のように細くゆらいで、陽炎の熱を残して、消えた。
自分が目にしたものが信じられない。
シェラは声を無くし、最早使い物にならない、切り落とされた狩人の弓を左手に持ったまま、立ち尽くした。
そんなシェラに、ルーダがスッと歩み寄り、左手をシェラの細くくびれた腰に回して、強く引き寄せた。シェラの豊かな膨らみが、ルーダの胸で大きく形を変えるほど近くに抱き寄せられて、はじめてシェラは目をしばたたかせて、間近に迫ったルーダの顔に焦点を合わせた。
「……なんの真似よ」
未だショックの抜けきらない声の問いかけに、ルーダは優しいとさえ見える微笑みをうかべて囁いた。
「ここで終わりにしないか? 進化は止められないぜ。例え今回、お前たちが俺達に勝ったとしても、それはほんの一時のことだからさ。いずれ新しい天使に食い尽くされるなら、ここで終わりにしないか?」
「あたしは、最後までなにも諦めるつもりはないわ。それに、どうせ最期を迎えるなら、あんた以外のヤツと迎える方がいいわね」
「例えば誰と?」
「誰だっていいわ。あんた以外なら」
シェラは、相手を傷つけるつもりに満ちて吐き捨てた。だが、ルーダはかえって嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それはシェラ、やっぱり俺はお前の特別ってことだよな」
シェラは呆れたように眉をあげただけでなにも答えず、身を捻ってルーダの腕の中から逃れようとした。だが、ルーダの腕はしっかりとシェラを捕らえて離さず、シェラは腹立たしげにルーダを睨みつけた。
「なぁシェラ、このまま上に行って、誰か他のヤツに殺されるくらいなら、ここで俺に殺されてくれよ。代わりに、お前も俺を殺していいからさ」
頼むよ、と言うルーダは真剣そのものだった。本気で、この狭い箱の中、一緒に死んでくれと言っているのだと悟り、シェラは震えた。
爪先から身体を駆け上ったその震えが、恐怖のためなのか怒りのためなのか、それとももっと別のなにかのせいなのか、シェラにはわからなかった。
だが、あの日、翼を引き抜かれた背中の傷跡が、心臓の鼓動に合わせて、鈍く痛んでいた。
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