頭上には、重くのしかかってくるような、分厚い雲の天蓋。
眼下には、廃墟のように、壊れ、崩れかかった汚れた都市。
どんよりとした暗い世界を、世界よりも暗い色をした黒い天使達が飛んで行く。
都市をはるかに見下ろす上空を飛翔する天使達は、混沌とした都市の中に聳え立つ、五十九階建ての黒い刃のような高層ビルを見つけると、空を裂くようにして高度を下げた。そのビルの鋭く尖った頂には、三本の黒曜石の柱が互いに支えあうように傾き重なりあって、その中心に鈍く光る銀色の古びた鐘をぶら下げていた。内部にも、外にも、階段のようなものはなく、今そこに近づく黒い天使達のように背中に翼でもなければ、その鐘を打ち鳴らすことはおろか、目にすることすらできそうにない。
最上階の窓の一つは、大きく開け放たれていた。黒い天使達は、唯一、二対の翼を持つ天使を先頭に、開かれた窓から次々と吸い込まれるようにビル内に消えた。
最上階の窓からビル内に入ると、風を纏って翼を畳み、六人の下天使達は、壁際に数脚の椅子が並ぶだけで他にはなにもない、広いその部屋にいた二人の地上天使の前に立った。
彼らを待っていたのは、波打つような長い黒髪に酷薄そうな容貌の天使、狩人の長とも呼ばれるアシェと、少しクセのある髪を首の付け根より少し伸ばした、背の高い狩人の天使、ルーダだった。レリエルとラミエル、ティファイリエルには見覚えのある二人だ。他の天使はいない。
下天使の統治に同意する者全員、若しくはその殆どで出迎えることなく、彼ら二人だけが待っていたのは、下天使達への信頼の証か、それともその反対か。
ラミエルは、反対の意味にとったのかもしれない。不快そうに眉をひそめ、ガランとした部屋の中を見回している。だが、ティファイリエルは逆に、余計な者を集めず、明らかにこちらより劣る数で、それでも長自らが出迎えたことに、ホッとした表情をうかべた。
レリエルは、なんの表情もうかべていなかった。ただ相変わらず、どこか眠そうな顔で、アシェに告げた。
「来たよ」
「ご無事でよかった」
アシェは少し微笑み、下天使達全員を見渡して、ふと、表情を曇らせた。
「伺っていたのより、お一人、少ないようですが?」
レリエルを含めて、全部で七人と聞いていた。その全員がこの朝、狩人の塔へと移る予定だったはず。レリエルは、
「それなんだけどね」
と言って目を伏せ、汚れてもいない黒衣から埃を払った。
「ここに来る前に射落とされたよ」
「それは……反対派の者に、ということですか」
アシェは切れ長の目を見開き、眉をひそめた。
「だろうね。こちらに来ようと出た途端に攻撃を受けたよ。一人や二人じゃなかったね。我々が今日移ること、伏せておくはずだったはずだけど?」
「勿論です。どこからそんな。情報が洩れているような様子はなかったんですが」
戸惑い口調で言い繕うアシェに、レリエルは、そんなに驚くことじゃないと言った。
「まぁ、有り得ないことじゃないからね。ただ、そうすると、ここも安全とは言い難いんじゃない?」
「それは……」
アシェは言葉を失って、言い淀んだ。こちらが予測するより、願うより早く、事態が急速に動きだしてしまったのだろうか。
「ちょっと下の様子、見てきますよ」
思わず言葉を失ったアシェにルーダが声をかけると、アシェはあからさまにホッとして頷いた。
「そうか。頼む」
ルーダは、アシェが頷くとすぐに、レリエル以下、他の下天使達に軽く会釈して踵を返した。
下天使達を迎え入れるために、余計な調度品を別室に移して少し殺風景なくらいの広間としたその部屋を出て、ルーダはエレベーターホールに向かって歩きだした。
途中、開け放たれた会議室の前を通り、ひょいと中を覗きこむ。
中では、数人の天使が各々好き勝手に話をしていた。少し興奮気味に話す者もあれば、退屈そうに欠伸を噛み殺している者もある。
覗き込んだルーダを見つけて、中の一人がハッと顔をあげた。
「来たのか?」
それは、以前ルーダと共にレリエルたちを護衛したことのある、精悍な顔立ちの天使だった。あの時は一言も話さなかったその天使の声は、深みのある低く渋い声で、狩人の弓矢よりも、幅広の長剣の方が似合いそうな雰囲気があった。
ルーダは、その天使、レグザ・螺白(ラハク)に軽く頷き、
「なんか既に一騒動起こったらしい。ここにはまだ、なんの情報も届いてないのか?」
「一騒動? いや、特になにも聞いてないが。なにがあったんだ?」
「どうやら妨害があったらしい。ちょっと、下の様子を見てくるよ」
「俺も行こうか?」
と、立ち上がりかけたレグザを手で制し、
「いや、とりあえず俺だけでいいよ。また、後でな」
ルーダはヒラヒラと手を振った。
それから、ルーダは改めてエレベーターホールに向かって歩きだした。その表情は、下天使達が襲われ、内一人が殺されたことを知っているとは思えないほど暢気そうで、むしろ、楽しげだった。
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上空、遥か高みを黒い影が飛んでいくのを、シェラは鋭い狩人の視力で見つけた。
暗灰色の雲に覆われた薄闇の中、それはともすると、ただの錯覚、気のせいと思っても当然なほどだったが、シェラは全くそう思わなかった。自分の視力に自信があるというのもある。だが、なにより今日、その光景を見ることは予期されたことだった。
あれだけ遠くては、シェラの腕がどれだけ優れていても、到底、その矢は届かない。わかってはいたが、シェラの手は、無意識に腰の弓に伸びていた。
その時、駆けてくる数人の足音を聞き付け、シェラは狩人の塔の上空から、一本の路地に視線を転じた。
崩れかけたビルとビルの狭間から、黒い影が駆けてくる。近づくにつれ、駆けてくる者たちの中に、黒以外の色を身につけた天使たちが混じっていることが見てとれるようになった。
「戻ってきた」
シェラの右で呟く声が聞こえた。シェラはそちらを見ようともせず、軽く頷いた。
「襲撃は失敗したようね」
「どうしてわかる? まだなにも聞いてないのに」
揶揄するような響きに、シェラはようやく声の主を振り返った。彼女の整ったきつい顔には、あからさまな嘲りの表情がうかんでいた。
「あんたは見なかったの? あいつらはついさっき、最上階から塔に入ったわ。あんたの目は、ただの飾り?」
シェラの嘲弄を受けて、生粋の地天使にしても、ひどく色の白いその天使、イスラ・青妃(セイヒ)は、吊りあがって弧を描く眉とは対象的な下がり気味の目元に、かすかな朱をのぼらせた。身体に張り付くようなレザースーツには、何本ものベルトが巻き付き、ウェーブがかった髪が、額や頬に落ちかかっていた。
「上を見てなかったんだ」
自分でも言い訳じみている口調だと自覚していたが、それでも言わずにはいられなかった。シェラは、その言い訳さえも、馬鹿にしたように鼻先で笑った。
「なんのための見張り?」
目元の朱の色が頬にまで広がり、イスラが反射的に拳を固めた時、駆けてきた天使達の先頭から二人にかけられた声に、シェラとイスラの注意はそちらに向けられた。
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