悲しみも怒りも憐みも、どんな表情もそこにはなく、多良太はただ、虚ろに立ち尽くしていた。
それが、どんな表情よりもリフェールを打ちのめした。
リフェールは、無関心な素振りをするのも忘れて、多良太を瞬きもせずに見つめた。
(壊れてしまったの……?)
頭の中に響く自分の声は、他人のようだった。
多良太が笑うと、本当に光が零れるようだった。光の粒子で、辺りが輝くような気がした。
リフェールは、思わず零れそうになった涙を飲み込み、多良太からなんらかの反応を引きだそうと無理に口を開いた。
「仕方ないじゃない、なにが悪いの?」
今更、赦しを乞うて、自分だけ楽になるなんて赦されない。だからせめて、自分を責める気持ちだけでも引きだしたかった。
リフェールは、硬く冷たい口調で、吐き捨てるように言った。
「なにかの望みを叶えるのに、なにかが犠牲になるのは仕方ないじゃない。犠牲を恐れて願いを叶えようなんて、甘すぎる。それなら、最初っからなにも望まなきゃいいのよ。望みだけ一人前にあって、そのくせ自分だけはキレイでいたいなんて、そんなの我が儘よ。身勝手よ。傷つけるのが嫌で、自分が傷つくのも嫌なんて、そんなの不可能に決まってるじゃない」
一度話しだしたら、止めることはできなかった。多良太にではなく、自分自身に言い聞かせるように、リフェールはとめどなく言い募った。
「傷つくのが嫌なら、先に相手を傷つけるしかないじゃない。傷つくのが怖いなら、傷つけるのを恐れずにいるしかないじゃない。自分が大事なら、他人を犠牲にするしかないじゃない。 あたしは……決めていたんだもの。あの女にあたしの羽を引き千切られてから。あたしは、空を飛ぶためならなんだってするって。もう一度、背中に翼をもらって、一度でいいから自分の翼で空を飛ぶためなら、どんなことでもしようって。誰かを傷つけることなんて、簡単よ。だって、痛いのはあたしじゃないでしょう?」
(本当は痛い。すごくすごく痛い。でも……)
それを、認めるわけにはいかなかった。
「そうよ、殺せと言われれば、殺せるわ。あたしに翼をくれるなら、あたしはなんだってする」
『私がお前の羽になるよ』
胸の奥に響く声。
青灰色の優しい瞳。
大きな暗灰色の翼。
背中からそっと抱きしめられて、あの白い卵の海の上を飛んだ時の心地よさ。幸福感。
飲み込んだはずの涙が、また零れ落ちそうになって、リフェールは慌ててその想いを振り払った。
「あたしは、自分の羽で、自分の力で飛びたいの。どこへでも、好きなところに飛んでいきたいから。だから!」
と、それまで陶器の人形のように動かなかった多良太が、ピクリと眉を動かし、ゆっくりとまばたきした。そして、かすかな鈴の音にも似た声音で、囁くように尋ねた。
「好きなところって、どこ……?」
「え」
『リフェール』
サフィリエルが、微笑む。
そんな優しい声で呼ばれたことなんてなかった。見つめられたことなんてなかった。
(あたしが、飛んで行きたいのは……)
リフェールは息を呑み、両手で口元を覆った。
(どうしよう)
大きく目を見開き、リフェールは膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ。
(あたしが、飛んで行きたいのは、サフィリエルのところだ。あたしが一番好きなのは、サフィリエルのいる場所。 だけど、あんな形でサフィリエルを裏切って、今更、どうやって会えばいいっていうの? たとえもう一度羽をもらっても、本当に行きたい場所には行けない。それなら、全部意味がなかったっていうの? サフィリエルと多良太を裏切ってまで、欲しがった羽なんて、無意味だったの? だけどあたしは……だけど……)
両手で口元を覆ったまま、瞬きを忘れて凍りついたリフェールの傍らに、多良太がそっと寄り添うように座り込み、小さな声で言った。
「ごめんね、リフェール」
「?」
なぜ、謝ることがあるのかと、思わず訝るような視線を向けたリフェールに、多良太は泣き笑いのような顔で続けた。本当の気持ちに気づいたリフェールに対する多良太の相貌には、人形のような無表情さや、なにもない虚ろさはなく、リフェールへの労わりと憐れみと、それから、後悔の念が少し、浮かんでいた。
「わかってたんだ、ほんとは。リフェールはずっと隠そうとしてたけど、でも、やっぱり時々、どうしても聞こえてきてたから」
「気付いて、たの? なら、どうして……」
こんなことになるまで黙っていたのか。
声に出さない問いかけに、多良太はすまなそうに眉をひそめた。
「ごめんね。でも、信じたかったんだ。今度はきっと、なにもかもうまくいくって」
「今度って……?」
「約束、したでしょう?」
「約、束?」
いつかどこかで、そんな言葉を聞いた気がする。
憶えのない「約束」という言葉が、自分を生に結び付けていると感じたことがある。
だけどいつ?
リフェールは戸惑い、声を無くして多良太をただ見つめ返した。
多良太の瞳は、吸い込まれそうに澄んだ青い色をして、リフェールを見ている。
「ぼくらはきっとまた会えるって、約束したでしょう?」
ぼくらはきっとまた会える。また会えるから。
暗い雲に覆われた空。汚れた都市。胸に燃える炎。頬にあたる風。そして光。
記憶にないはずのそんな映像が、チカチカと頭の奥で瞬いて、リフェールは薄れゆく現実感に眩暈を覚えた。
そしてその時、
「準備はできた。来てもらおうか」
控えの間の扉がノックもなく開き、ザファイリエルが多良太に向かって言った。
多良太は、ハッとして顔をあげ、未だ現実と記憶の狭間から抜けだすことのできないリフェールにすぐに視線を戻したが、ラグエルが部屋の中に滑りこみ、リフェールの隣に座り込んだ多良太を乱暴に引き立てた。
リフェールは、頭の中の映像と目の前の光景のどちらが現実かわからなくなっていた。
呆然としたまま、細い腕を捕まれて連れて行かれる多良太を見送ったリフェールは、最後に、多良太が自分に呼びかけるのを聞いた気がした。
「また会えたでしょう? サキ」
と。
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