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多良太は、黒く巨大な扉を抜けて、初めて外の世界に目を向けた。
最初に目についたのは、褪せた青い空と、容赦なくギラギラとした輝きを放つ、光の円盤だった。それから、波打つ雲海の中を伸びる黒い道。そして、その先にわだかまる、淀んだ闇のような黒い都市と、その上でチラチラと飛び交う羽虫のような黒いもの。
話には聞いていたが、実際に遠くから目にした黒い都市は、ひどく不吉で、どうしようもなく不安にさせられた。前を行くリフェールの小さな背中は、決して振り返る気はないことを、声もなく物語っているようだった。その頑なな背中の奥にあるリフェールの心を、今は聞くことができるのだろうか。
多良太は、少しの間哀しげに、リフェールの揺れる黒髪を見つめていたが、やがて目を伏せ、自分の足元だけを見て歩いた。
多良太の裸足の白い足は、滑らかで光沢のある黒い道に、ひどく不釣合いのようでいて、鮮やかに対比しているようでもあった。白い雲と金色に輝く太陽と青の空は、多良太の姿そのものとよく似ていた。だが、多良太本人にはそれに気付いているのかどうか。
足元だけを見て、歩き続けている。
集積場を出てからは、誰がそれを指示したわけでもないが、リフェールではなく、ザファイリエルが先頭に立ち、その次にリフェール、多良太、ラグエルの順になっていた。
やがて、蜘蛛の糸のように伸びた一本の道が、都市へと溶け込み、彼らの上空を黒い天使達が飛び交うようになった。
上空の天使達は、その四人連れに目を留めると、驚きと好奇心を抱きはしたものの、不自然なほど近づいたり、声をかけてくる者は誰もいなかった。おそらく、その先頭に立つ、三対の翼を持つ天使を恐れてのことだろう。ただ遠巻きに、上空を巡るだけだった。
彼らが目指しているのは、黒いビルの隙間から見え隠れする、巨大な暗黒の大聖堂だった。十二本ある尖塔の、漆黒の十字架を掲げた最も高く鋭い尖塔は、付近の高層ビルをかるく凌駕していた。
リフェールにとっては、あまりにも通い慣れた道だ。とはいえ、自分一人の時は、こんなに堂々と表通りを歩くことはない。都市に入るとすぐに、暗い路地裏の影に溶け込むように、道を折れ、遠回りして行くのだ。
だから、表通りをまっすぐに歩いてきた今、意外なほど早く目的地に辿り着いたことに、リフェールは内心、激しく動揺した。
黒い石段と、その先に続く精緻な装飾が施された両開きの扉が目の前にある。その脇にある通用門の前には、門番の天使が二人。ザファイリエルの姿を認めて、二人の門番は素早く扉を開いた。
開かれた扉の向こうは、通路を照らす明かりで、真の闇ではなかったけれど、どんな明かりもない濃密な闇と同じくらい、暗くて恐ろしかった。
後ろにいるはずの多良太を振り返りたかった。
それと同時に、決して振り返りたくなかった。
できることなら、今すぐこの場から駆けだして、逃げてしまいたかった。
だが結局、リフェールは黙ってザファイリエルの後に従って開かれた通用門をくぐり、両脇から威圧的に、蔑むように見下ろす天使達の壁画の飾られた通路を歩き、天井の高い吹き抜きになったホールへと辿り着いた。
ホールの中で、ザファイリエルが立ち止まった。
リフェールも多良太もラグエルも、殆ど自動的に歩みを止め、振り返ったザファイリエルを見やる。
「さて、少し、準備がある。リフェールと多良太には、そこの」
と、ホールから程近い扉の一つを指差し、
「控えの間で待っていてもらおうか。ラグエルが扉の前にいる。今更逃げようなんて考えない方がいいぞ」
薄く笑った。
「え……」
リフェールはギクリとして顔を強張らせた。
今更逃げようとするなと釘を刺されたこともそうだが、なにより、多良太と二人きりになるということに、心臓が跳ねあがる。できるなら誰か代わりに、そうでなくても、部屋の外で待っていることを許してもらおうと、リフェールは暗黒の天使に訴えようとした。
「あ、あの、でも……」
「待っていろと、私はそう言ったんだが?」
「は、はい」
偽りの穏やかな口調に、ヒヤリとした夜気のような冷たさが滲み、リフェールは反射的に首を縦に振った。
「結構」
ザファイリエルは当然のように頷き、ラグエルに後は頼むと言い残して、ホールの奥にある、半階で左右に折れる黒い階段へと歩み去った。
「ついてこい」
ザファイリエルの姿が階段の中央から右手に折れて見えなくなると、ラグエルは傲慢な口調で二人を促した。リフェールと多良太は、自動人形のようにそれに従った。
ラグエルは、リフェールにも多良太にも必要なこと以外話かけようとはしなかったし、二人にも話しかけてほしくないようだった。その姿を目に入れることさえ、できるなら遠慮したいと思っているようだ。
リフェールと多良太を従えて、控えの間の扉を開けると、まるで追い払うような仕草で、二人に中へ入れと言い、二人が中に入るや否や、さっさと扉をしめると、ザファイリエルに言われた通り、扉に背を向けて、黙ってその場に陣取った。
控えの間と呼ばれるその部屋は、他のどことも同じように、やはり黒づくめで、どこか黴臭いような古い臭いがした。部屋の奥に、ドロリとした混沌そのものを描いたような絵画が飾られ、左右の壁に、三人掛けのソファーや一人用の簡易な椅子が並んでいる。
リフェールは、ただ多良太を見るのが怖いという理由で、本当は近づきたくもない、憂鬱な暗い絵に歩み寄り、その前に立った。
多良太はずっとなにも言わないし、その表情を窺い見てもいないから、今、多良太がどんな顔で自分の後ろに立っているのかはわからない。責めるような表情でもしていてくれれば、少しは気が楽かもしれない。実際、責められて当然なのだから。だが、そこに悲しみや同情が浮かんでいるのなら、このままずっと、振り返らずにいたかった。
リフェールは下唇を噛み締め、何度もためらい、逡巡した挙句、結局、絵を眺めるのに飽きて、どこかの椅子にでも座ろうとする素振りを装って、絵の前を離れて、こっそりと横目で多良太を窺い見た。
多良太は、虚ろだった。
そこには、なにも、なかった。
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