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黒い巨大な扉を抜けると、無機質な白い通路が続いている。
天井のパネル照明のどこかには、通路を歩く者を監視するカメラが隠されていて、その映像はリアルタイムに大聖堂の一室にあるモニタ室に送られていると、以前に聞かされていた。
だから、自分が今この通路を歩いて、サフィリエルと多良太の元に向かっていることも、完全に筒抜けのはずだ。
迎えに行くと、暗黒の熾天使は言っていた。自分がその前に二人に会いに行くことを、あの宇宙の闇のような天使は喜ばないかもしない。
止められるかもしれない?
リフェールは、どこからか急にあの黒い天使の声が聞こえるような気がして、ひどく不安になってきた。
最初は少し足早に、やがて小走りに、リフェールは白い通路を駆けて、その扉を開けた。
そして、リフェールは見た。
絶望と同じ意味を持つ、黒い姿を。
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サフィリエルの瞳が、光のない暗い色に翳っていったその時、
扉が、開いた。
思わず、反射的に扉の方を見やったサフィリエルの瞳に、瞬きするように光が戻る。
そこにいたのは、小柄な少女天使。中の様子を目にした途端、息を呑み、凍りついていたが、
「リフェール」
囁くようなサフィリエルの声に、ゆっくりとサフィリエルを見やり、緩慢な動作で首を巡らせて、多良太と、その側に立つザファイリエルとラグエルに視線を移した。
いきなり現れたザファイリエル達の存在に驚き、戸惑っているのだろう、と、サフィリエルがなにか声をかけようとした時、ザファイリエルがチラリとサフィリエルに視線を走らせ、揶揄するようにリフェールに言った。
「なんだ、大人しく多良太を渡すよう説得しに来てくれたのか?」
「あ、あたしは……」
「任務は完了したはずだ。お前が多良太の特殊な能力について報告してなかったことは、後でゆっくり説明してもらうが」
「任務?」
その言葉の違和感に、サフィリエルが困惑気味に呟き、リフェールはビクッと肩をふるわせた。
「あたしは……」
サフィリエルに視線を戻したリフェールは、今にも泣きだしそうに顔を歪めていた。泣きだす寸前のリフェールの表情に、サフィリエルの心臓は錐で突かれたように痛んだ。リフェールにあんな顔をさせるくらいなら、もうそれ以上なにも言われなくていい。
もういい、なにも言わなくていい。
サフィリエルがそう言いかけた時、黒々とした闇のようなザファイリエルの声が聞こえた。そこには、明らかに楽しみ、弄んでいるような響きがあった。
「リフェールは、お前を見張る看守だ」
「え」
咄嗟にザファイリエルを見やると、ザファイリエルはうっすらと笑って言った。
「我々の命を受けて、お前を監視していたんだよ。無論、多良太のことも逐一……ではなかったようだが、報告してもらっていた」
「まさか」
サフィリエルはゆっくりとかぶりを振った。
「本人に聞いてみればいい」
ザファイリエルはそう言ったが、サフィリエルはただ首を振って、うすく笑う暗黒の天使からも、それ以外のものからも目を伏せた。
「聞かないのか?」
ザファイリエルは、今この時を、心から楽しんでいるようだった。舌舐めずりすらしそうだ。
「リフェール、サフィリエルに教えてやらないのか?」
リフェールは楽しそうなザファイリエルを一瞥し、俯いて目を伏せるサフィリエルを見つめた。
そして、ゴクリと息を呑み、思い切ったように口を開いた。それは、サフィリエルも多良太も一度も聞いたことのないような、暗く重い声だった。
「本当よ。サフィリエル、あたしは、サフィリエルと多良太を見張ってたの。その日なにがあったのかも、全部報告してたわ」
「嘘だろう?」
それが真実だということは、サフィリエルにも既に強く感じられていたが、それでも、そう尋ねずにはいられなかった。リフェールが、そんなのは嘘だと言いさえしてくれたら、サフィリエルはザファイリエルの黒い言葉より、リフェールの言葉を信じるだろう。
だが、
「嘘じゃないわ。嘘なんかじゃない。あたしは……騙してたのよ、ずっと!」
リフェールの言葉の終わりは、出かかった悲鳴を消し去ろうとしているかのようだった。体の横で、ぎゅっと握りしめたリフェールの指先が白くなっていた。
と、それまでずっと黙って立ち尽くしていた多良太が、小さな声で、それでもきっぱりと言った。
「そんなの、嘘だよ」
「多良太!? バカなこと言わないでよ、嘘なんかじゃないものっ」
多良太がなにを言いだすのかと、多良太は口にだされなかったなにを聞いたのかと、リフェールは慌てたように早口で言った。
だがそれでも、多良太は青い瞳をゆらめかせ、懸命に言葉を紡いだ。
なにをどう言えばいいのかわからないのか、ひどくぎこちなく、途切れがちではあったけれど。
「でも、だって、リフェールは、そうしたくはなかったでしょ? それに、今だってぼくらを……」
「やめて!」
リフェールは、声を張り上げて多良太を遮った。
「余計なこと……嘘、言わないで! 多良太の嘘つきっ」
首がもげてしまいそうな勢いで首を振り、強い口調で否定する。その激しさに声を失った多良太の代わりに、ようやく顔をあげたサフィリエルが、静かに問いかけた。
「リフェール、なぜ?」
「なぜ?」
ふ、と、リフェールは口元だけで笑う。その冷たい笑みは、どこか作り物めいていたが、その後に続く言葉には、本物の血の色が滲んでいるようだった。
「サフィリエルにはわかんないわ。たとえどんな色だって、翼があるんだもの。自分の翼で飛べるんだもの」
「リフェール……」
サフィリエルの悲しそうな青灰色の瞳が、太くて長い針になって、胸にズブリ、と沈み込むような気がした。その痛みを振り払うように、リフェールは声を荒げた。
「でも、あたしは飛べないんだもの! あたしは飛びたかったんだもの! どうしても、どうしても自分の羽が欲しかったんだもの! 協力したら、手術してくれるって約束してくれたわ。だからあたしは……」
(私がお前の羽になると。それじゃ駄目なのか? それじゃ駄目だったのか?)
「あたしは……翼が欲しかった! 羽のない天使なんて、飛べない天使なんて、天使じゃないでしょう? あたしは、天使になりたかったのよ!」
リフェールは、サフィリエルを睨みつけるようにして叫んだ。
こうして、怒りに身を任せているのは、とても楽で気持ちがいい。この怒りがとけてしまうのが怖かった。
「仕方ないじゃないっ! なにが悪いの? 天使になりたいんだもの、仕方ないじゃない! そのためなら、あたしはなんだってするわ。そうよ、サフィリエルや多良太を裏切ることだって!」
「私は……」
囁くようなサフィリエルの掠れ声に、叫び続けていたリフェールは、反射的に口を噤んだ。
「いらなかったよ。お前の翼になれないのなら、こんな翼、いらなかった」
そう言って再び世界から目を伏せたサフィリエルの顔は、人形のように虚ろだった。
リフェールは、サフィリエルの言葉にハッと口元を押さえ、耐え兼ねたように顔を背けた。
あの時のその言葉は、本当に泣きたくなるほど嬉しかったのだけれど、今更それを伝えることはできない。もう後戻りはできないのだと、リフェールは必死に心を殺した。
サフィリエルを黙って見つめる多良太は、ただ、哀しそうだった。
もう充分と判断したのか、立ち尽くすサフィリエルには構わず、ザファイリエルは多良太とリフェールを促した。
「さぁ、ここに用はもうない。行こうか」
「さっさとしろ」
逡巡する多良太とリフェールを、ラグエルがぞんざいにせき立てる。サフィリエルは動かない。心と体の両方が、麻痺しているかのようだ。
リフェールは、サフィリエルの顔を見ることができず、そのまま最初に扉を開けて出て行った。
その後にザファイリエルが続き、多良太はなにか言いかけたものの、ラグエルに肩を小突かれ、結局なにも言えずに扉をくぐった。生まれて初めて集積場の外に出るのだという感慨を、その胸に抱いている様子はない。ただ、言いかけた言葉がサフィリエルに伝わるようにだろうか。最後まで、何度も何度も振り返っていた。
サフィリエルは、多良太とリフェールが出て行くことに、気付いてさえいないようだった。
そして、外界への扉は、閉ざされた。
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