進化の卵  
3章「無翼の天使」
 
 
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3-12


「なにが駄目なのかな?」
 ザファイリエルが微笑んだ。その微笑みに、多良太は傍目にも明らかなほど激しくふるえだした。
「多良太? どうしたんだ?」
 気遣わしげに尋ねるサフィリエルの声が聞こえないのか、多良太は鋭く息を吸い込み、吐きだすと同時に叫んだ。
「駄目! そんなの駄目!」
「多良太? 一体なにを……」
 聞いているのか。
 そう尋ねることは、多良太の特殊な能力について肯定するようなものだ。咄嗟に口を噤んだサフィリエルに、ザファイリエルが楽しそうに言った。こんなに上機嫌なザファイリエルは見たことがない。それがひどく不安にさせる。
「いやいや、なんでもないんだよ、サフィリエル」
 目を細めて笑いながら、ザファイリエルは続けた。
「ところで、多良太? お前は、我々と一緒に来るだろう?」
 多良太は当然、首を横に振ると思った。そんなことを承知するわけがない。連れて行かれたらどうなるのかを、多良太は確かにザファイリエルの心から読み取ったのだろうから。
 それなら、自分は今ここで、例えどれだけ恐ろしくても、この二人の天使を相手にどんなことでもしてみせる。
 だが。
 小さく顎を引き、多良太は頷いた。
「多良太!?」
 サフィリエルは、自分の目が信じられなかった。なんとか傍らの多良太の視線を捉えようとしたが、多良太は、サフィリエルの方を見ようともしない。
「本当にいい子だねぇ。これもみんな、サフィリエルの教育の賜物だな」
 ザファイリエルが笑う。
「なにも言わなくてもわかってくれるなんて、察しがいいんだろうね。テレパスじゃなくても、勘のいい子はたくさんいるものだ」
「……多良太」
 サフィリエルはもう一度、多良太の名を呼んだ。多良太は振り返らない。それでも、片手はサフィリエルのマントを掴んだままだ。強く、とても強く掴むその手は、小刻みにふるえている。
(なにを聞いたんだ? あいつはなにを思ったんだ? 例え、あいつがなにを言ったとしても、言いなりになる必要なんてない。聞こえないのか、多良太。聞こえてるんだろう?)
 応えはない。
「サフィリエル、今回のことは、多良太の素直さに免じてお咎めなしとしておこう。だが、今後はこんな勝手な真似は、くれぐれも慎むようにな」
 多良太の声が聞きたいのに、聞こえてきたのは暗黒の天使の声。ザファイリエルは押し付けがましい寛容さを口調に滲ませて言った。
 サフィリエルは、ゴクリと息を呑み、青灰色の瞳で、宇宙の闇のような瞳を見返した。
「私は……どんな罰でも受ける覚悟はできています。ですから、多良太は……」
「我々が寛大な態度を見せてるからって、調子にのるな! 貴様はもとより受刑者だろうが」
 サフィリエルの言葉を最後まで聞こうともせず、ラグエルが苛立たしげに遮った。思わず言葉を飲み込んだサフィリエルの前で、ザファイリエルが黒いその手を、多良太に差しだした。
「さぁ、多良太。おいで」
 多良太は、一度、ぎゅっとサフィリエルのマントを掴み直し、それを離すと、ゆっくりと足を踏みだした。
「多良太!」
 サフィリエルが多良太を呼ぶ声は、悲鳴に近かった。咄嗟に、手を伸ばして、離れようとする多良太の腕を掴む。
 ビクン、と体を強張らせ、多良太はひどくゆっくりと振り返った。
 多良太の青い瞳がサフィリエルを見つめる。白銀の月が放つ、月光のような青い瞳がゆらめいて見えるのは、堪え切れない涙のせいだろうか。
「サフィリエル」
 掠れた声で多良太が囁いた。
「大好きだよ。忘れないでね。ぼくは、なにがあっても、いつだって、サフィリエルのこと、ずっと、大好きだよ」
 多良太は、掌でとけていく雪のように微笑んだ。
「多良太、なぜ?」
 多良太はサフィリエルの手をそっと掴み、名残りを惜しむようにゆっくりと自分の腕から引き離し、暗黒の天使達にまた一歩、近づいた。
「多良太!」
 もう一度、多良太をもう一度掴まえようとサフィリエルが手を伸ばした時、
「下がれ!」
 鋭い叱責の声とともに、炎の塊がラグエルの右手の中に膨れ上がり、転瞬、それがサフィリエルの腹部に叩きつけられた。
 ゴッ
 暗い炎が破裂して、火の粉を散らす。
 サフィリエルは、よろめく間もなく、床に叩きつけられた。
「!」
 息が止まる。意識がゆらぐ。白いマントが羽のように広がった。長衣の腹部が、黒く焼け焦げていた。
「サフィリエル! ……なにもしないって言ったのに」
 目を見開き、多良太が小さな両手で口元を覆った。
『なにもしない』
 なにと引き換えの言葉だったのか。サフィリエルは、暗闇に飲み込まれそうな意識を、その言葉の意味で懸命に繋ぎとめようとした。
 ザファイリエルが宥めるように多良太に微笑みかけ、ラグエルを心のこもっていない口調で諌めた。
「わかっている。ラグエル、手荒な真似はしないようにな」
「は」
 慇懃に一礼して、ラグエルは一歩下がってみせた。
 ザファイリエルは頷き、手の届く距離まで近づいた多良太の肩に軽く触れた。
「さぁ、多良太。サフィリエルに別れの挨拶をな」
 別れ。
 その言葉が最後の力になって、サフィリエルは失いかけた意識を取り戻した。
 低く呻いて、なんとか目を開けると、多良太が白い陽炎のように立っているのが見えた。
「さよなら、サフィリエル」
 泣きだしそうな顔で微笑む。
「多良……太」
「ご機嫌よう、サフィリエル」
 ザファイリエルが薄く笑って告げる。
「二度と馬鹿な真似はするな。大人しく卵を数えてればいいんだ。それが似合いなんだよ、出来損ないには」
 ラグエルが棘だらけの言葉を吐く。
 だが、そんな二人の天使の声など、サフィリエルには届いていない。その姿さえ目にも入っていなかった。
 意味があるのは、目の前の、今にも泣きだしそうな多良太のことだけだった。
「多良太」
 『さよなら』と、多良太はそう言った。
 『帰ってくるから』と、そう言わなかった。
 それなら多良太は、二度と戻れないと知っているのか。知って尚、この二人について行くというのか。
 なにもしない、の言葉と引き換えに。
(私のために? 私になにもしないという約束なんかのために? では私のせいか。私のせいで、多良太が犠牲になるというのか。そんなことが……そんなことが許されていいのか!?)
 サフィリエルは、片手をついてゆっくりと立ち上がった。
 許されていいわけがない、と思う。 許したくない、と思う。
 では、どうすればいいのか。答えは自らの中にある。
 サフィリエルの青灰色の瞳がゆらめき、暗くなる。
 その時、





   
         
 
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