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あんなに胸躍らせていたのに、集積場の巨大な扉を前にした途端、リフェールはふいに、言いようのない不安に襲われ、思わず立ち竦んだ。
(これはなに?)
扉を押し開けようとした姿勢のまま固まった自分の手を、まるで他人の物のように見つめる。陽に灼けた細い腕から伸びる、小さな手。
どうしてこんなに突然、怖くなったのだろう。
サフィリエルと多良太に許してもらえないかもしれないと、思ったからだろうか。
(そう、かなぁ。そうかもしれない。だけど、二人に謝ることもできないで、ただどんどん悪くなるのを見てるだけよりマシだもの。それよりずーっといいもの)
リフェールは自分に言い聞かせるように頷き、途中で止まったままだった手に、意識して力を込めた。
巨大な扉は、いつものように、その大きさからは少し信じられないほど軽く、滑るように押し開かれた。
入るのはこんなにたやすい。出る時もそうだろうか。今日、この後、この扉を三人で、たやすく通り抜けられるだろうか。
「リフェール、今日は来るかなぁ」
リフェールのことが心配で眠れない夜を過ごしたサフィリエルは、それでも、いつものように無数の卵を数えるために、集積場の扉を開けた。その時傍らで呟かれた多良太の言葉に、思わず足が止まる。
「どうだろう。……来ると、いいな」
素直に自分の気持ちを口にするのは、ひどく難しい。どこかぎこちなく言ったサフィリエルに、多良太はそのままの気持ちを曝けだして、サフィリエルを見上げた。
「うん。今日もまた来てくれなかったら、やっぱり心配だよね」
「そうだな」
と、すぐ近くにある外への扉が。
「あ!」
多良太が喜びの声をあげる。あの扉を開けてここを訪れるのは、リフェール以外、多良太は知らない。だが、サフィリエルはその刹那、胸に鋭い棘が刺さったような不安を覚えた。
サフィリエルのゆったりとした袖を引っ張って、多良太が扉を指差した。
「サフィリエル、よかったね。リフェールだよ! やっぱり、昨日はちょっと用事があっただけなんだね」
「あ、ああ」
多良太の歓喜の声とは裏腹に、サフィリエルの胸は、波のようにざわめいていた。
扉が開き、その向こうから黒い姿が現れる。
それは、多良太の思っていたものよりずっと大きく、小さなリフェールの姿を予想していた多良太は、初めて、
「あれ?」
と呟いて、サフィリエルを引っ張って連れて行こうとしていた足を止めた。
サフィリエルの胸に、巨大な黒い塊がのしかかる。喉が張りついたように、声がでない。息さえ苦しい。
入ってきたのはリフェールではなかった。それに一人でもない。
腰より長い黒髪。刃物のように鋭い目と宇宙の闇のような底のない黒い瞳。黒檀のように黒い肌と、それを覆うゆったりとした黒い衣。光を吸い込む暗黒の翼がその背に三対。
それから、短い黒髪と不機嫌そうな顔つき。琥珀色の肌と一対の黒い翼の持ち主が続いて現れた。
闇と影を纏った、生粋の天使達。
「ザファイリエル様……」
呆然と掠れ声で名を呼ぶ自分の声を、サフィリエルはまるで他人のもののように聞いた。もう一人の天使に、見覚えはなかった。
「久しいな、サフィリエル」
と、笑みを浮かべるザファイリエルは、笑っているのに、青ざめた氷よりも冷ややかに感じた。
我知らず身震いしたサフィリエルは、その背中に隠れるようにして、多良太が身を縮こまらせていたことに気付き、二人の天使達の視線から隠すように片手を下にたらした。今更、隠しようもないことはわかっていても、明らかに怯えている多良太を、少しでもあのゾッとするほど冷たい視線から守ってやりたかった。
「我々が訪れた用件はわかってるな?」
唐突に、傲慢さを滲ませて言ったのはラグエル。サフィリエルは、答えることができなかった。
わかっているかと言われれば、そう、わかってはいた。だが、わかっていますと、口にだすことが、どうしてもできなかった。
黙りこくったままのサフィリエルを忌々しげに睨みつけ、ラグエルは、なにか穢いものを見るような目で、サフィリエルの後ろを指差し、吐き捨てた。
「その、未許可の子供だ」
たとえその心の声を聞かなくても、その口調で、相手が自分をどう思っているかは充分にわかる。サフィリエルの白いフード付マントの腰の辺りをぎゅっと掴んで、多良太が更に体を竦めた。
サフィリエルは、下げていた手を後ろに回し、多良太の腕をそっと握った。
(大丈夫、大丈夫だ)
多良太に届くようにと、強く心の中で繰り返す。
だが本当は、多良太と同じくらい、もしかしたらそれ以上に自分も怯えていた。
「ま、今更お前にどうこうしろとは言わない」
ラグエルとは対照的に、ザファイリエルはどこか楽しそうでさえあった。
と、その時、サフィリエルの背中に隠れた多良太が、ビクッと身を強張らせ、引き攣ったように叫んだ。
「嫌だよ! ぼくは行きたくない!」
「多良太!?」
その悲痛な叫び声に、サフィリエルは驚き、戸惑い、多良太を振り返った。
多良太は青ざめた顔でサフィリエルを見上げ、ふるえていた。青い瞳は、今にも薄氷のように砕け散ってしまいそうだった。
「ごめんね、サフィリエル。でも聞こえちゃうんだ。ぼくをここから連れだして、閉じ込めて、切り刻んで、ぼくを研究するつもりだって」
「!」
言葉の内容に衝撃を受け、サフィリエルが凍りつく。
そして、声が聞こえた。
実際にその冷気を感じさせるような、冷ややかな声が。
「これは驚いた。聞こえるんだね? 他人の心の声が、お前には」
「まさか」
ラグエルは半信半疑で呟き、ザファイリエルの正気を疑うような眼差しさえ浮かべていたが、ザファイリエルは既に確信しているようだ。
その内側に沈殿する冷気を漆黒の瞳に宿し、ザファイリエルは口調だけは優しげに、楽しげに言った。
「変わっているのは姿形だけじゃないってことだね。面白い、実に興味深いな」
「ぼくは……ぼくは……違う、聞こえないよ。わからないよ」
首を振って否定してみたところで、たぶん、もう遅いのだろう。だが、多良太は、繰り返し言い続ければ、全部なかったことにしてしまえるとでもいうように、何度も違うと呟いた。
ザファイリエルは、サフィリエルの背中に隠れたままの多良太に問いかける。歌うように。
「本当に? それなら、今はもう、私がなにを考えているのかわからないのかな?」
「……わからない」
「なるほど、ねぇ」
一刹那後、多良太はサフィリエルの影から飛びだしていた。
「駄目っ」
「多良太?」
サフィリエルは驚いて、いきなり飛びだした多良太を見下ろした。
多良太は、片手で相変わらずサフィリエルのマントを掴んだまま、大きな目を見張り、信じられないものを見るようにザファイリエルを見ている。その青い瞳は、ザファイリエルの中の、なにを見ているのだろうか。
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