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「それじゃ、始めよう」
レリエルは、なんてことのない口調で言って、両手を胸の前で構えた。
息を飲み、黙って頷く面々に、レリエルは淡く微笑む。そして、両掌を内側に向けると、掌から少し離れた空間に、砂粒のように小さな光が生まれた。その手から生みだすものが、炎ではなく光であるのは、上級天使の証だった。
光は、レリエルの胸の前でみるみる育ち、レリエルが掌を天井に向けた時には、両掌から零れ落ちそうなほどの、白く輝く球体になっていた。
そしてレリエルは、固唾を飲んで見守る者達に、静かに頷きかけた。
「行こう」
囁くように告げ、両手の球体を放り投げるように、高々と掲げる。
バグン、
光は、天井を突き破る瞬間、なによりも白く輝き、空へと立ち上る光の柱となった。
その一瞬、目をつぶって顔を背け、光を直視するのを避けた後、黒い翼が一斉に羽ばたいた。
光球によって穿たれた三メートルほどの穴から、下天使達は次々と飛びだしていく。飛び立った彼らは、螺旋を描くように旋回しながら、はるか高みを目指した。
それは、建物上部から逃れることを決めた時に、予め打ち合わせたことだった。外に出れば、地天使達の矢で狙い撃たれることはわかっていたから、旋回して、その中心を飛ぶレリエルの盾になろうというのだ。そしてその間、威嚇代わりに、炎をできるだけ多く、下の地天使達に投げつけようと。
ハマエルは奮い立ち、シグフェルは怯えた。他の面々は、多かれ少なかれハマエルとシグフェル双方の気持ちを抱きながら、それが現状で最善の策だという結論に達した。
そしてレリエルは、他の下天使達から降り注ぐ炎に、地上からの攻撃がやんだ瞬間、主翼と副翼を交互に羽ばたかせ、黒い天使が描く螺旋の中心を貫くように天空を目指した。
暗灰色の雲は、淀んで腐った沼のように重くたれ込め、天上のあの白い雲と同じものとは思えない。
それとも、まさしく在るべき姿なのかもしれない。見かけはキレイで整った天使達が、中身は汚れて歪んでいるように。
(きっともう、種としての限界なんだろうね。進化の卵が孵るのも、当然だよね)
と、自分の周りを巡る下天使達に聞かれたら、かなりのショックを与えそうなことを胸の内で呟いて、レリエルは少し、目を閉じた。
風の音がする。羽ばたきの音がする。炎の矢が掠め飛ぶ音がする。
そして……
「あぁっ!?」
悲鳴?
レリエルは閉じていた目を開き、声の方へ目を向けた。
振り返ったその瞬間、風を切り裂いて炎の矢がレリエルの頭上を掠めゆく。あと少し、振り返って無意識に速度を緩めるのが遅かったら、あの矢は確実に自分を捉えていただろう。レリエルはわずかに身震いした。
漆黒の闇の中に、真紅の花が咲いていた。
広げた翼の真ん中に、真っ赤な炎の花が咲いている。
そこにあるのは驚愕だろうか。恐怖の色はあまりない。黒い翼を射抜かれて、自らの翼を見つめているのは、黒い巻き毛のクシフェル。地上天使たちからの最初の一矢を危うく受けそうになったのは、つい先ほどのことだった。だが、今度は髪を焦がすだけでは済まなかったようだ。
上空を吹く風と羽ばたきの風圧で、炎はみるみる大輪の花となって咲き誇り、黒い羽が灰になってチラチラと花びらのように舞い落ちる。
「火を消さなくちゃ!」
慌てて声をあげたのはティファイリエル。
「隊列を乱さないでっ」
冷酷だが、冷静な声をかけたのはラミエル。当のクシフェルは、穴の開いた翼にバランスを崩して失墜しながらも、至極平静に手を振った。
「行ってください」
「でも……!」
「あともう少しで下の攻撃も届かなくなりますよ。こっちはなんとかしますから」
「なんとかって……」
「ティファイリエル、自分の役目を果たしなさい! レリエル様を奴らの矢に晒してどうするの!」
ラミエルの鋭い叱責に、ティファイリエルは自分が他の下天使達から少し遅れていることに気付いた。そして、慌てて強く羽ばたきながら、落ちていくクシフェルを振り返る。
クシフェルは既に、赤い炎と共に遠い。
だが、遠目にティファイリエルが振り返っていることに気付くと、大丈夫だから行けと言うように手を振った。
と、その時、
地上から飛来した炎の矢が、クシフェルの胸の真ん中に赤く突き立ち、クシフェルは、手をあげたまま、身を折るようにして頭から墜ちていった。
「クシフェル!」
ティファイリエルは声をあげたが、きっともう、届いてはいないのだろう。
レリエル以下、他の下天使達もさすがに息を呑んだが、他に為す術もなく、赤い炎にまかれながら墜ちていくクシフェルを黙って見守ることしかできなかった。
見守りながらも、暗い雲の天蓋に塞がれた上空を目指すことしかできなかった。
クシフェルは、その翼を赤い炎の矢で射抜かれた時、身体の内を走り抜けた感覚に、少し痺れたようになっていた。
ティファイリエルは心配していたようだけれど、その時にはもう、自分では最期をわかっていたような気がする。
怖くはなかった。
ボロボロと燃え落ちていく羽根に、うまく飛ぶこともできなくなっていたけれど、自由を奪われてただ翻弄されて墜ちていく感覚は、頭の芯を酔わせ、麻痺させていく。
間近に燃える炎の熱と焦げた臭い。
クシフェルは、振り返って見下ろすティファイリエルに、少し笑って手を振った。
(そんなに気にしなくていいのに)
元々、盾というのはそういうものだし、それに。
燃えていく熱と痛みは、
熱くて、熱くて、痛くて、痛くて、
とても……心地よかった。
もし、自分が、苦痛の奥にある甘美なきらめきを知らなかったら、恐怖に息もできなかったかもしれない。だが、クシフェルはいつも意識していた。
痛みと強く結びついた快楽を。
最終的な究極の快感は、死をもたらすほどの苦痛。この長い命が果てる時は、眠るようにいつの間にか終わってしまうのではなく、激しい痛みの中で、悦びながら終わりたい。
(炎で焼け死ぬのも、このまま地面に墜落して死ぬのも、そんなに悪くはないね)
そう思って、口元の笑みを深めた時、
クシフェルの胸の真ん中を、赤い炎が貫いた。
その瞬間の熱と痛みに酔いしれる間もなく、クシフェルは全ての感覚を失い、ただ墜ちていった。
そこにはなにもない。
ただ虚ろな闇が広がっているだけだった。
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