進化の卵  
3章「無翼の天使」
 
 
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3-8


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 見張りを務める灰色の天使の左右に、それぞれ一メートルほどの間隔を空けて、六人の地上天使が石塀の瓦礫に身を潜め、ナスラとアイカが二つの折れた石柱の影に陣取った頃、目的の建物に点った明かりは、一つだけではなくなっていた。
(いよいよ、だね)
 下腹部に心地よい痺れがある。アイカは、赤い唇をチロリと舌で舐め、腰のボウホルダーに下げた短弓に手を滑らせ、それを掴んだ。
 その瞬間の悦びに、一瞬、目を閉じる。
 時折気紛れに、天使や卵人を目がけて放つ炎の矢とは違う。今日の炎は、卵人狩と呼ばれる本格的な狩りの時と同じ、いや、それ以上に特別なものだった。
 自分が放つ矢こそが、天上の天使に対する、地上天使からの宣戦布告になるのだ。
 この役目をもたらしてくれた全てのものに、感謝のキスを贈りたいくらいだ。最高の快楽の中の死を、プレゼントしてやりたいくらいだった。
 アイカは、すっかり馴染んだ黒い弓を左手で持ち、空に向けた右の掌に目を落とした。
 黒い皮の手袋の上で、赤い、砂粒のような光が瞬いている。
 その光に、あとほんの少しの意思を注ぎ込めば、それは赤く燃える炎となって、狩人の弓につがえる炎の矢になる。
 アイカがそうやって、最初の炎を生みだすのを見た他の天使達の間に、一層の緊張感が走った。彼らにも、その瞬間が本当に間近に迫ったことがわかったのだろう。
 そうしている内に、ナスラもまた、同じように手袋をした右手の掌に、アイカのものとよく似た小さな赤い輝点を宿した。
 続いて、ひび割れたコンクリートに跪いた地上の天使達も、自分の掌を空に向ける。
 だが、彼らが呼び起こしたものは、アイカやナスラのものとは違い、不安定にゆらめく親指ほどの炎や、アイカたちより明らかに見劣りする、暗いくすんだ色の小さな炎だった。
 炎を生みだすのも、それを炎の矢へと変えるのも、経験と意志の力。日頃からその力を磨きあげている狩人達と違い、怠惰な快楽の中に溺れ浸りきっていた地上の天使には、美しく輝く、凝縮された炎の光点を生みだすのは難しいのだろう。
 アイカは、他の天使達がそれぞれに準備を整えたのを見、話し声や物音は聞こえないが、明らかに目覚めた建物内の気配を感じ、掌の上に輝く赤い光点に、最後の力を込めた。
 光は燃えあがり、掌いっぱいの炎となる。
 その炎を、左手の黒い弓にピンと張った銀色の弦の中心に据え、右手で引き絞ると、炎は熱でとろけた飴細工のように伸びて、一本の矢になった。
 そしてアイカは、炎の矢をつがえた弓を、厚い雲に覆われた暗い天空に向けて構えた。
 あの、壊れた扉の奥から、目指す相手が現れた瞬間、その矢で空を射貫くために。
 アイカが、ただその瞬間を待って息を潜めていたその時、
「きました」
 灰色の天使が切迫した口調で囁き、アイカも思わず息を呑んだ。
 だが、最初に現れたのは目指す相手ではない。彼ら下天使を纏める智天使の姿を認めるまでは、最初の一矢を放つのを堪えなければ。
 アイカがそう思って、指先に込めた力を更に強めた刹那、


 ヒュン、


 赤い炎の矢が、最初に姿を現わした巻き毛の下天使のこめかみ近くを掠め、背後の扉に突き当たった。
「!?」
 一瞬、驚愕に目を瞠り、アイカはすぐに燃え上がった怒りと共に、今の矢を放った相手を探した。
 瓦礫にしゃがみこんだ天使達。その視線の先にいた一人の天使。それは、一度は置いてこようかと考えた、あの青ざめた顔の天使だった。
 今は、青ざめるどころか、紙のように真っ白な顔をして、離れて見ても明らかにわかる震えに襲われて、空っぽの自分の右手と放たれた炎の矢の突き立った扉を交互に見つめている。
(やっぱり、置いてくりゃよかったよ)
 怒りと後悔の念と共に、アイカは天空に向け、炎の矢を放った。
 こうなってしまっては、目的の智天使を待っている暇はない。すぐにも一斉攻撃を仕掛ける外はない。
 アイカの放った炎の矢は、一条の赤いレーザービームのように、暗い空を貫いて消えた。
 そして、改めて馬鹿な真似をした地天使に怒りをぶつけようとした時、アイカは、その怒りは別の場所に向けるしかないことを知った。
 その天使は、既に側頭部を射抜かれ、黒っぽい煙をたなびかせながら瓦礫の中に崩れ折れていた。
 直感的に、その矢を放ったのはもう一人の狩人、ナスラだろうと悟りつつも、確かめるようにナスラに視線を投じると、ナスラはアイカに、どこか淫靡な視線を返し、やけに赤い舌でゆっくりと舌舐めずりしてみせた。ナスラの左手では、新たに炎の光点が生みだされたところだった。
 やっぱりそうかと確信して、アイカもまた、新たな炎を掌に宿す。
 今ここで、重要な最初の一矢と、それを邪魔した相手への報復を奪われた腹いせに、ナスラに怒りをぶつけてみたところで意味はない。この襲撃作戦自体をこれ以上危険に晒すわけにはいかない。
(全部、後回しにするしかなさそうだね)
 諦めと引き際なら、シェラ相手に充分なくらい経験済みだ。
 アイカはナスラから目を外し、俄かに騒がしくなった黒い建物を見やった。
 既に、他の地上天使達が、数だけは立派に炎の矢を打ち込んでいる。その殆どは、扉にすら到達することなく、途中のひび割れた舗装路を焦がしているが。
 それでも、なんとか突き刺さった矢が、傾いた扉を燃やし、焦げた臭気を漂わせていた。
 アイカは、最早誰もいない扉から、建物の中を目がけて矢を放つ。
 彼女の赤く燃える矢は、瞬間の軌跡を残しながら、暗い扉の向こうに吸い込まれた。そしてもう一本。ナスラの放った矢も、狙い違えることなく、扉の内側へと消えた。
 アイカの合図を見たのだろう。建物の側面や裏側からも、無数の炎の矢が降り注ぎはじめた。窓ガラスを割って中に飛び込む、パリン、パリンという高い音が、そこかしこに響いていた。
 このボロボロの廃墟が、炎に包まれて燃え尽きるのも時間の問題だろうし、今となっては、この扉から下天使達が出てくることはないだろう。最早、下天使達を内部に追い詰め、耐えかねて外に出て来ざるを得ない状況にするしかない。
 その時こそ、目指す相手を射落としてやればいい。
 そしてその矢を放つのが自分であることが、この作戦に参加した狩人達全ての願いだった。





   
         
 
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