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朝未き、分厚い雲に閉ざされた地上の都市は、まだ暗い。
だがそれでも、夜明けの薄明は、大気に靄のように溶けていた。
そうと知らなければ、無数にある廃墟の一つにしか見えないその建物の前に、息を殺し、中の様子を伺う影があった。
半ばから折れた二本の門柱と、その横に続く、元はコンクリートの壁だったらしい瓦礫の陰に屈み込んで身を潜めていた灰色の姿に、もう一つの影が、闇の中から滲みだすように近づき、少し掠れた声で囁いた。
「中の様子は?」
「まだ動きはありません」
静まりかえった建物から目を離さずに、全身を地味な灰色の服で包み、フードで眉の辺りまで隠して見張りの役についていた細身の天使が小声で答えた。
天上の天使のように黒づくめで、天上の天使は決してしないほど露出の高い服装の女天使アイカは、無造作にカールした髪の襟元をかきあげて、猫のように吊り上がった大きな目を細め、黒い建物を薄明かりに透かして見た。
「今日動くことは確かなんだ。引き続きしっかり見張って……」
おくようにと言いさした時、灰色の天使が、一瞬、ピクリと身を震わせた。
「明かりがつきました」
アイカもそれを見ていた。黒い建物の二階の一室から、擦り切れた灰色のカーテン越しにオレンジがかった明かりが漏れいでるのを。
アイカは顎を引いて頷き、
「誰か起きたようだね。他の連中に声をかけてこよう」
灰色の天使に囁きかけると、瓦礫の奥の半ば崩れたビルの陰へと、目の前の建物から視線を外すことなく後退っていった。
目的の建物からは見えない、ビルの反対側には、十数人の天使達が集まっていた。壁に寄りかかったり、地面にしゃがみ込んだり、瓦礫に腰掛けたり、それぞれ好き勝手な体勢で時間を潰していたようだ。
中で、明らかに狩人とわかるのは、アイカを含めて五名。独特の雰囲気を纏わり付かせ、完全な黒一色に身を包んでいた。
それ以外の天使は、普段街中にいる普通の天使なのだろう。少しは気を使っているような抑え目の色使いで、それでもいつもの派手さを完全には殺せていない服装をして、日頃は極力接触を避けている狩人の天使が間近にいることで、落ち着かない様子を見せている。
アイカは、主に自分と同じ狩人の天使達に目を向け、濡れたように赤く、ぽってりと厚い唇を笑みの形に歪めて言った。
「そろそろお目覚めだよ。全員配置について」
「やっとか」
ため息をつくように言葉を吐きだして、黒い天使の一人が、端の方に腰掛けていた、折れた鉄骨の突き出る瓦礫からスルリと立ち上がった。
その、滑らかな動きは、美しい蛇に似ていた。光沢のある黒い鱗の、美しい蛇のようだった。肩にひっかけた黒い狩人の弓を、無意識の内だろうか、愛しげに撫で摩っている。
「てっきり夜中に逃げだす気かと思ってたけど。夜が明けてから堂々となんて、よっぽど馬鹿なのか、あたしたちのこと舐めてるのね」
そう言って、地面に胡座をかいて座りこんでいた年若い天使も立ち上がった。
まだ少女の域をでない、背中の半ばまで真っ直ぐな髪を伸ばしたこの天使も、黒に染まった狩人の装いをしている。狩人の弓は、小振りの短弓で、すぐ傍らに置いてあったのを、立ち上がると同時に手にしていた。
「どっちもじゃないのか?」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべて言ったのは、長い前髪で顔の左半分を隠した、やはり狩人の黒装束を身につけた天使だった。
腕組みをして壁に寄りかかっていたが、言葉と同時に壁を離れ、腰に下げた短弓に手を伸ばしながら、早速決められた場所へと歩きだしている。
「じゃあ、どっちの意味でも後悔させてやらなくちゃ」
少女の天使が歌うように呟き、狩人達に威圧されたかのように、黙りこくった天使の一団を冷ややかに一瞥した。
「さぁ、あんたたちもグズグズしないで。あたしの下につくことになってるのは、さっさと来なさい」
そう吐き捨てて、返事も待たずに歩きだす。その後を追って、慌てたように、三人の天使がどこかぎこちない動きでついていった。
薄笑いを唇に貼り付けたまま歩きだした狩人の天使の背中にも、二人の天使がついていき、他の黒い天使達それぞれに二、三人の天使が従った。
そしてアイカは、その場に残った六人の天使と、一人の狩人の天使を、改めて見やった。
自分と同じ狩人の天使は、先ほど最初に口を開いた、しなやかな爬虫類のような天使で、名をナスラ・瞑紫(メイシ)と言った。細身の体にピッタリと張り付いた黒いラバースーツが、更に蛇のような印象を強めている男の天使で、体の割には大きな長弓を扱う。その腕前は、アイカとほぼ同等。
(まぁ、こいつのことはいいんだけどね)
アイカは、明らかに蔑みを含んだ目で、少し怯えた地上の天使達を見た。
彼らもまた、それぞれ大きさの異なる弓を手にしていたが、狩人の磨きあげられた黒檀の弓と違い、それはいかにも間に合わせといった雑な造りのもので、剥きだしの木の弓だった。そして腕前の方もまた、武器と同じく、間に合わせの代物でしかなかった。今回の襲撃を前に、ある程度使えるまで特訓させはしたが、それでもなんとか前に打ちだすのがせいぜい。命中率については、まぐれさえ期待していなかった。
(それでも、こいつらはマシな方だって言うんだからね。戦力として数えるのが、無意味ってもんさ)
寧ろ、足手まといにならないでくれれば有り難いくらいのものだ。
緊張のせいか、狩人への恐怖のせいか、皆一様に少し青ざめて、中でも、紫苑色のジャンプスーツを着て、サイドを短く刈り込んだショートヘアの天使は、今にも吐きそうなくらい青ざめて見えた。こんな状態だったら、かえって邪魔になりそうだ。この場に残しておいた方がいいかもしれない。
(まぁ、いいさ)
だが、アイカはすぐに気分を切り替えた。
元々、狩人以外の地上天使と手を組むことにしたのは、彼らの力を期待してというわけではなく、天上の天使達に、彼らの統治を快く思っていないのは、狩人も他の地上天使も同じだということを示すためだった。だから、彼らと行動を共にするということが重要なのであって、実際に戦うのはまた、別の話だ。
「いいね。改めて言っておくよ。攻撃は合図があってから。奴らのリーダーを仕留めることが最優先だからね」
腰に手をあて、アイカは全員を見渡しながら言った。攻撃の合図は、今回の襲撃部隊のリーダーを務めることになった、アイカがすることになっていた。赤く輝く炎の矢を、天空めがけて一直線に放てば、それが攻撃開始の合図だ。
「そいつ、智天使とかいったっけ? 羽が他の奴らより余分にあるんだよな?」
肩にかけた長弓に手を滑らせながら、ナスラがわずかに首を傾げた。アイカは頷き、
「そう、四枚。下天使共は、翼がだせなくなるのが嫌だとかって、殆どだしっぱなしにしてるからね。わかりやすい特徴だね。それに、万一しまってあったとしても、あたしは一度そいつの顔を見かけてるから、すぐにそれとわかるさ」
赤い唇を吊り上げて笑った。
「わかりやすいのはいいな」
ナスラはそう言って、しなやかに身をくねらせた。そんな動きをすると、本当に、黒光りする艶やかで美しい蛇のようだった。
だが、なまめかしいその姿態も、アイカにはなんの感慨も抱かせることはなく、それよりも間もなく始まる戦いへの予感に、アイカは身体の内側から、甘いおののきを感じていた。
「さぁ、あたしらも配置につこう」
そう言って、アイカは、ナスラ以下六人を促した。
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