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白く広がる雲海の上を、黒い道が真っ直ぐに伸びている。
その先にある漆黒の巨大な建物を避けるように、あれだけ大勢いた天使達もまばらになり、時折近くの建物から現れても、道の先にある集積場には目も向けず、都市の中心部を目指して飛んでいってしまう。
ふっつりと途切れた都市の終わりから伸びる道は、遮るものも他になく、ビルの陰を選んで歩いてきた身にとっては、あまりに開放的で、あまりに無防備で、思わず立ち竦んでしまいそうになる。
だが、いつもそうやって逡巡するその広々とした道への一歩も、今日ばかりは足を竦ませることはなかった。
胸に宿った光。
この光が一緒なら、白々とした光に満ちたその黒い道も、堂々と歩いていける。
風が、少しでてきた。
厚い雲を吹き払うほどの力はない。そよかな風だ。
リフェールの黒いワンピースの裾をはためかせ、肩まで伸びた髪をなびかせる。
頬を撫でる風が心地よく、リフェールの口元に、ほのかな微笑が浮かんだ。
そしてリフェールは、道の先にある見慣れた建物を目指し、いつもより少し足早に、歩いていった。
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ヒュンッ、
一条の赤い光が、こめかみを掠めて背後へ消えた。
「!?」
肩まである豊かな巻き毛を揺らし、クシフェルは、咄嗟に光の軌道を追って振り返った。
蝶番が外れて傾いた方の扉に、赤い光が突き立っていた。
光は、崩れるように炎を散らし、焦げた臭いが鼻先に漂う。
「クシフェル、中へ!」
誰かの声が響き、クシフェルは右腕をぐい、と強く引かれて、開け放った扉から、よろめくように建物の中に引きずりこまれた。
「奴ら、出てくるのを狙ってやがったんだな」
クシフェルの腕を強く掴んでそう言ったのは、長い黒髪を首の後ろで束ねた背の高い天使、ラドキエルだった。浅黒い精悍な顔立ちを、深刻そうな表情が更に厳しく見せている。
「反対派の奴らなの!?」
ラドキエルの後ろにいたラミエルが、叱責するかのような口調で鋭く訊く。それに誰かが応える間もなく、風を切る音とともに、幾筋もの炎が続けざまに扉近くで火の粉を散らした。
パチパチと炎のはぜる音が聞こえた。扉付近は既に、耐えられないほどではないが、危険を感じさせるのに充分なくらいに熱気を帯びてきている。
「とにかく、ここにいちゃマズい」
ラドキエルが、まだ少し呆然としているクシフェルの腕を引きながら、誰にともなく言い、最後尾にいたシグフェルは、わずかにふるえる声で皆を促した。
「奥に行きましょう」
廊下を全員で奥へと向かう途中、間にある部屋の奥から、パリン、パリンとガラスの割れる音が聞こえ、窓からも炎の矢が射込まれていることを知らせた。
「くそ、窓からも射ち込んできやがった」
ラドキエルが忌々しげに吐き捨て、ようやくクシフェルの腕を放した。
クシフェルは、掴まれていた腕を押さえ、今やっと我に返ったように、後にしてきたばかりの入口の扉を肩越しに振り返った。
傾いて開きっぱなしの扉が燃えていた。外からは、絶えることなく炎の矢が飛び込んできている。ラドキエルが掴んでいた箇所は、きっと赤く痕になっているだろう。そこばかりが、痺れるように熱かった。
「全部燃やす気かな」
無意識の内に炎の矢が掠めたこめかみ近くの髪に手をやりながら、クシフェルが呟いた。指先が触れた髪は、ホロホロと脆く崩れ、一瞬の炎に焼かれていたことに今更ながら気付いて、恐怖とは違う感覚が、ゾクゾクと腰から背筋を這いのぼるのを感じた。
「このままじゃ閉じ込められるね。すぐに出よう」
歩きながらのレリエルの言葉に、シグフェルが戸惑ったような、途方に暮れたような言葉を返した。
「ですが、扉も窓も、出た途端に狙い撃ちされますよ。どうしたら……」
「三階の窓から行こう。たぶん、そこも狙ってるだろうけど、少しでも射程距離を長くした方がいいよ」
そう言って、ティファイリエルが廊下の先にある階段を指差した。ティファイリエルの意見に頷き、ハマエルがどこか不敵な笑みを浮かべて言った。
「一挙に上空まで昇ろう。あいつらの矢が届かないくらい上まで」
その表情にちょっと眉をひそめながらも、ラミエルが後を引き取った。
「集合は、狩人の塔上空にしましょう」
「窓から出る前に、こっちからも威嚇射撃をするのを忘れないようにね。二人か三人の組になって」
こんな時でさえ、少し眠たげな口調でレリエルが注意を促し、ティファイリエルが真剣な決意のこもった表情でレリエルに言った。
「レリエル様、レリエル様はぼくが援護します」
「……わかった。頼むよ」
レリエルは、ティファイリエルを見下ろし、少し考え込むような様子を見せたものの、結局、かすかに口元に笑みをうかべて頷いた。自分の援護を引き受けたティファイリエルは、この中で一番の危険に身を晒すことになるだろう。外にいる反対派の天使達にとって、まず一番の標的は、下天使のリーダーである自分だろうから。
「じゃあ、俺も手伝いますよ」
と、ハマエルが相変わらず笑みを浮かべて援護の援護を買ってでたのは、レリエルとティファイリエルの身を案じてというより、危険に身を投じるのが好きな質だからかもしれない。レリエルは、ハマエルのその性格を承知の上で、わかったと頷いた。
「頼むよ」
「任せといてください」
ハマエルは、ニッ、と自信たっぷりに笑った。
その時、波打つ髪を肩口まで伸ばしたシグフェルが、おずおずと口を挟んだ。天上の天使特有の陽に灼けた肌が、心なしか青ざめている。
「ですが、我々には彼らのように武器もありませんし、攻撃しても届くかどうか」
不安を隠しきれない様子のシグフェルに、ハマエルが侮蔑のこもった視線を向けた。
「炎の撃ち方も忘れたのか?」
「そういうわけじゃないけど、飛距離が足りないんじゃないかって話だよ」
「上からの攻撃だもの、その分有利だよ。反撃するのが肝心なんだから」
「ああ、そうですよね。わかりました」
ティファイリエルの言葉に、シグフェルもようやく納得したように頷いたが、強張った表情は変わらなかった。
「とにかく、急ぎましょう」
と、ラミエルがピリピリした口調で急かした。既に階段下までやってきて、足を掛けている。
「そうだね、行こう。皆、後でね」
レリエルは頷き、そこにいる自分が選んで下天させた六人の天使全員の顔を見渡した。
「はい」
緊張した顔で頷き合い、下天使達は、天上から下りてきた時に身につけていた、黒い長衣を翻し、階段を駆け上った。
窓ガラスの割れる音がいたるところから聞こえていた。
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