進化の卵  
3章「無翼の天使」
 
 
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3-5


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 暗灰色の雲が重くのしかかる地上の都市に、薄暗い朝が訪れ、今にも崩れそうな三階建ての建物の中、普段は誰も使っていないが、なにか集まる時にだけ使われる古い応接間で、女の腹立たしい声が弾けた。
「今日こそ現れるんでしょうねっ!?」
 斬りつけるように問うのは、おろせば床につくほどの長いゆたかな黒髪を、幾つもの束にして複雑に編み上げ、塔のように纏めた女天使、ラミエルだった。
 問われたのは、未だ成長途中の曖昧さを残した小柄な天使、ティファイリエル。いつも早起きな彼は、今日も一番に応接間に現れ、ラミエルではなく彼らのリーダーであるレリエルが姿を見せるのを待っていたのだが、意に反して、普段よりかなり早く起きたらしいラミエルに、朝一で怒鳴りつけられることになってしまった。
 昨日一日、レリエルが自室に閉じこもったことで、ラミエルから散々文句を言われ、愚痴をこぼされ、それでもそのお蔭で、もうあらかた怒りを発散してくれたかと思ったのだが、一晩明けて、ラミエルはまた新たな怒りを蓄えたらしい。ラミエルの怒りのエネルギーというかパワーというものは、底をつくことがないのだろうか。
 ティファイリエルは、彼女の怒りは、生命力とか力強さの表れなのかもしれないと思い、少し羨ましいようなそうでないような気持ちだった。
 素直に羨ましいと思えないのは、自分には、あんなパワーは、とても扱えそうにない気がするからだ。もし、あれだけのパワーを手にしたら、きっと持て余して、自滅してしまうだろう。
 ティファイリエルは、座っていた色褪せた布張りの肘掛け椅子から立ち上がり、困ったように小首を傾げた。
「と、思うけど?」
「思う!?」
「だって、そう言ってたのを聞いただけだもの。ぼくにそんな噛みつかれても困るよ」
 ティファイリエルの言葉は、確かに正論なのだが、ラミエルの怒りは、そんなことで薄れるものではなかった。寧ろ、正論だからこそ、理不尽な怒りが湧き上がり、ラミエルは反射的に、きつい言葉をティファイリエルにぶつけようとした。
 と、その時、ラミエルの背中に、どこか眠たげな声がかかった。
「まぁ、それはその通りだよねぇ」
 弾かれたように声を振り返り、ラミエルは、昨日からずっと待ち侘びた相手の姿を見た。
 一日ぶりに現れたレリエルは、なにか吹っ切れたような、胸につかえていたものが取れたような、そんな奇妙にサッパリした顔に見えた。
「迷惑かけて悪かったね」
 思わず声を失ったラミエルに、レリエルは嫌味も皮肉も感じられない口調で、のんびりと謝罪した。
「いえ……」
 真正面から謝られて、さすがのラミエルも毒気を抜かれたように、ぼんやりと首を振った。怒りの残滓が燻って、黒い塊になって喉を詰まらせているかのように、うまく言葉がでてこない。
 その後レリエルは、ティファイリエルに目を遣り、
「あんたにも迷惑かけたね。もう大丈夫だから」
 と、かすかに微笑んだ。ティファイリエルは、なにが大丈夫なのかよくわからないまま、
「そうですか、それはよかった」
 口の中でモゴモゴと呟くように応えていた。
「それじゃ、行こうか」
「……え? どちらに?」
 レリエルの唐突さに、ティファイリエルはラミエルと戸惑った視線を一瞬だけ絡ませ、それからレリエルに尋ねた。
 レリエルは、決まりきったことを、と、笑った。
「アルシェレイムのところだよ。そう言ってあったでしょう?」
「あ」
 ティファイリエルは小さく声をもらし、慌てたように頷いた。
「そうでしたね、すいません」
 レリエルが狩人の長、天上名でアルシェレイムことアシェとの会談後、共に下った下天使全員を集めて語ったことに、孤立したこの無防備な建物を出て、狩人の塔と呼ばれる高層ビルへ移動するという内容があった。昨日一日の時間的猶予の内に、彼ら全員を受け入れる準備がなされているはずだ。
 無論、狩人達全てがそれを快く思うわけではないことは、一度自身でビル内に足を踏み入れたティファイリエルやラミエルには痛いほどよくわかっている。レリエルとて、それは同じだ。
 だから、先日のように正面から乗り込むわけにはいかない。今回はただの話し合いに来たわけではなく、言わば彼らの本拠、心臓部に直接入り込もうというのだから、地上統治への反対派天使達が、それを黙って見過ごすとは思えない。なんらかの妨害があって当然だろうし、下手をすれば本格的な蜂起へと繋がる恐れもある。
 妨害自体は、この建物を出た後はあまり心配することはないとレリエルは言った。塔に入ることは難しくないと。
 問題は、その前、準備期間中や、今現在、この建物内にいる間に襲撃されることだと言った。
 以前から、反対派の天使達に攻撃されることを警戒して、常に見張りを立たせてはいるが、狩人の長であるアシェとの会談後は、その見張りもより一層緊張感に満ちたものになっていた。
 今のところ目立った動きはなく、彼らが狩人の塔に入るという情報はうまく伏せられているのかもしれないが、それも油断を誘う策とも考えられるし、いつ、なにか不測の事態が起こるとも限らない。
 ティファイリエルは俄かに緊張した面持ちで、それでは、と言った。
「他の皆にも声をかけてきます。レリエル様のご準備の方はよろしいんですよね?」
「大した荷物もないしね」
「わかりました、すぐに呼んできますから」
 そう言って、ティファイリエルはバタバタと部屋を飛び出して行った。残されたラミエルは、少し居心地悪そうに身じろぎして、ふいに思いついたかのように言った。
「あ、私もちょっと失礼して、荷物を幾つか持ってまいります」
「そう?」
 レリエルはわずかに首を傾げ、どうでもよさそうに頷いた。
「すぐに戻ります」
 ラミエルは口早に言い残し、ティファイリエルが立ち去ったばかりの扉から部屋を出て行った。


 一人きりになると、レリエルは、殆ど無意識の内にそっと、自分の胸元に触れた。
 天上で身につけていたのと同じ、ゆったりした黒のローブは、レリエルの女性らしい曲線も、首から提げたやわらかい布地でできた袋の膨らみも、外からはわからないようにしてくれる。
 今、レリエルがその手で触れて初めて、胸元の双丘の間に、もう一つ丸い膨らみがあることが確認できるくらいだ。
 レリエルは、狩人の塔へ移るのに、たった一つ、その袋だけを用意した。
 ほのかにあたたかいその中身を感じていると、自然と、天上にある一つの面影が思い出される。
 夜のように深く黒いその姿。
 その時レリエルに浮かんだかすかな微笑みは、悲しみと苦痛と諦めとに彩られていた。





   
         
 
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