進化の卵  
3章「無翼の天使」
 
 
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 青みを帯びた夜の灰色が、南の窓から、暗い部屋をぼんやりと浮かびあがらせていた。
 正面の壁に刻まれた無数の傷跡は、昼の光より夜の闇を好むのかもしれない。明るい日差しでは見えなかったのが、ほんのわずかな薄暮の光に、白く滲んで見えた。
 リフェールは、幻のように浮かぶ、幾重にも重なった傷跡に気づくと、ようやく顔を傾けて、窓に迫る夜を見やった。
(もう、夜……サフィリエルと多良太、心配してるかな)
 多良太の卵を見つけてからは、一日たりとも欠かすことなく集積場に通い詰めていた自分が、なにも言わずに訪れなかったことを、サフィリエルと多良太は不審に思うだろうか。
(でも、今更それがなんだっていうの?)
 リフェールは膝を抱えていた腕をほどき、ベッドに仰向けに倒れこむと、両手で顔を覆った。
 目を瞑り、その暗闇の中で思い出すのは、あの日のこと。
(サフィリエルに初めて会った日に、家に戻る途中であの熾天使が現れて、あたしの望みを叶えるためにだされた要求を、自分の意思で呑んだその時から、あたしは、いつかこうしてサフィリエルを裏切るために、生きてきたんだもの。今更、不審に思われることぐらい、なんだっていうの? 明日か明後日には、サフィリエルも多良太も知ることになるんだから。……あたしが、汚らしい最低の裏切り者だってことを)
 サフィリエルに取り入り、卵を見張り、万一にも孵化しそうな卵があれば、密かにその卵を孵すようにサフィリエルに働きかけること。卵が無事孵ったなら、その動向を逐一報告すること。
 それが、ザファイリエルがリフェールにだした要求だった。


 失われた翼の代わりを与えるための。


(そうよ。もう一度、もう一度背中に翼を生やして、そして今度こそ空を飛びたい。そのためなら、どんなことだってするって、あたしは決めたんだもの。全部、今更よね。あの天使の言う通り、こうなることはわかっていたんだもの。 だけど……)
 きつく閉じた瞼の奥から、溢れだす熱を止められない。
(わからなかったのよ、最初は。こんなに、こんなにもサフィリエルと多良太のことが大好きになるなんて。こんなにもあの二人が特別になるなんて。二人が傷つくことが、こんなにも痛いなんて……)
 黙って静かに涙を流していたリフェールの喉から、やがて堪えきれない嗚咽が漏れ始め、リフェールはごろりと横向きになって、身を丸めた。
 胎児のような格好で、拳を口に押し当て、リフェールは泣いた。
(サフィリエル……多良太……ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……)
 繰り返し、祈るように心の中で謝り続けている内に、リフェールはいつか、夢のない、ドロリとした眠りの中に落ち込んでいった。
 灰色の薄暮もやがて溶け、灯りのない部屋の中は、リフェールの眠りのように黒く沈んだ。
 リフェールは身体を丸めたまま、石のように眠った。


 安らかについた眠りではなかったが、一日半ぶりの睡眠がもたらした効果は大きかった。
 黒っぽい眠りが溶けていく間際に、ひどく重要な啓示を受けた気がして、リフェールは勢いよく跳ね起きた。起きた途端、その思いつきも消えてしまうかと思ったが、それは目を覚ましてもちゃんとそこに残っていた。
(そうよ、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったの?)
 自分の愚かさ加減にうんざりする。リフェールは苦く笑って、ベッドの真ん中から滑るように下りた。
 気付いてしまえばあまりに簡単なこと。自分にもサフィリエルにも多良太にとっても、それが一番いい。リフェールは、たぶん生まれて初めて、集積場以外の場所で、喜びと期待に胸を踊らせた。
 そして、寝癖でクシャクシャになった髪を手櫛で梳きながら、リフェールは寝室を出て、玄関に向かった。サフィリエルと多良太に、この冴えた思いつきを話すのが待ち切れない。


 玄関のドアを開けて、すぐにも駆け出してしまいたいのを堪え、リフェールはいつものようにそっと様子を窺い、マンションの廊下に誰もいないことを確認してから外に滑り出た。
 一歩、自分の部屋から出たら、油断はできない。
 たいていの天使は、玄関のドアではなくバルコニーの窓から外に飛び出すとはいえ、絶対に誰もいないとは限らない。
 エレベーターは駄目だ。万が一、誰かが乗り込んできたら逃げ場がない。
 だからリフェールはいつも、階段を使った。
 リフェールの部屋は六階。慣れてしまえば、一気に昇っても息切れもしない。面倒を嫌う怠惰な天使達が、階段を使う可能性は皆無に近いが、やっぱりゼロとはいえない。階段を昇り降りする時に、上下の気配を窺い、極力足音をたてないようにすることも既に習慣になっている。
 リフェールは、逸る気持ちを抑えて、いつものように慎重に行動した。ここで興奮して慎重さを欠いて、他の天使に見つかったら元も子もない。慌てちゃ駄目だと自分に強く言い聞かせた。
 マンションから無事に外に出たら、もっと気をつけなくてはいけない。
 そこら中に溢れている天使たちの目を掠め、見つからないよう影を選んで暗闇に紛れて歩くのだ。空を飛ぶ天使の群れに見つからないように。地を這う小さな虫を狙う、鳥の目から逃れるように。
 リフェールは、天上、雲の上にあってもまだ暗い、黒いビルとビルの狭間の細い路地を縫って、都市の外れにある卵の集積場を目指した。昨日の夜まで飲み込まれていた絶望ではなく、光り輝く希望が胸をあたたかくし、暗い路地を照らしているかのようだった。
 今なら、なにもかも全部話してしまえる。胸につかえていた黒い塊を吐きだして、なにもかも全部。
 サフィリエルと多良太に、やっと「ごめんね」と言える。
 二人に会ったら、最初にちゃんと謝ろう。謝って、全部話して、そして……


 逃げよう。


 逃げよう。
 一緒に。
 この暗い世界から。


 逃げよう。





   
         
 
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