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いつものように、白い卵の海で、クリップボードを片手に冷凍カプセルに詰められた卵の状態をチェックしていたサフィリエルの傍らで、多良太がぽつりと呟くように言った。
「リフェール、来ないね」
多良太の呟きに、サフィリエルは一瞬ギクリとして、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
それは、今正にサフィリエルが頭に思い浮かべていたことだった。多良太はまた、声にださなかった言葉を聞いたのだろうかと、サフィリエルは顔色を窺うように多良太を見下ろした。
多良太は、驚くほど青い瞳でサフィリエルを見返し、少し心配そうに形のいい眉を寄せて、小さく首を傾げた。
「ね?」
「そうだな」
確かに、いつもならとっくに姿を見せている時間になっても、リフェールは一向に姿を現わさない。たとえ多良太が、サフィリエルの心の声を聞いたとしても、聞かなかったとしても、そろそろ気になってもおかしくない頃合だ。それに、多良太の口調はさり気無く、多良太が時折他人の心の声を聞くと知らなければ、特に不審に思われることもなさそうな言い方だった。
サフィリエルは、今のは特に気にすることもないだろうと、もう一度多良太に頷きかけた。
「確かに、遅いな」
「リフェール、なにかあったのかなぁ」
「なにかって?」
「よく、わからないけど……。でも、こんなに遅くなることってなかったから」
傷だらけだったリフェール。身体にも心にも、無数の傷を受けて血を流していた。引き毟られた背中の傷痕。
その全てを思い出し、サフィリエルは不安に顔を強張らせた。
翼のない天使に残酷な天上の都市。彼女の背中に翼がないのが、ださないからではなく、だせないのだと知られたら、容赦のない暴力を浴びて、二度と立ち上がることができなくなったとしても不思議ではない。
サフィリエルはゾッとして、手にしたクリップボードを指が白くなるほど握り締め、思わず、外界へと通じる唯一の扉に目を遣った。
白く波打つ雲海のような卵たちの向こう、白い壁に溶け込むその扉。
なぜかリフェールだけに開放された、青い空と白い雲と黒い都市へと続く扉。
自分には決して、開けることも、ましてや通り抜けることなど許されていない扉。
だが、本当に?
本当に、開けて出て行くことはできないのだろうか。ただ今まで、本気で出て行こうとしなかっただけで……
そう、確かに。
あの日、この卵海に立つ自分を初めて意識するまでは、この場所を出ていくことなど頭の片隅に浮かべたことすらなかった。出ていくことも、他のどんなことも、
なにも、なかった。
一度、リフェールが訪ねてくるようになってすぐ、一人で扉を試してみたことはある。だが、その時は閉ざされて開けることはできなかった。とはいえ、その時も本当に開くとは思ってなかった。もしかしたら、本気で出て行こうとさえすれば、あの扉を開けて出て行くことも可能なのではないだろうか。
有り得ない。
と思いつつも、その思いつきが頭から離れない。サフィリエルは、
「少し、休もうか」
何気ない風を装って、多良太を促した。
多良太も、本当はわかっているのかもしれない。何気ないふりをしていても、少し唐突すぎるサフィリエルの提案を、ただ小さく頷いて受け入れた。
そしてサフィリエルは、多良太を伴い、彼らが生活する小さな部屋へ向かった。その部屋の扉のすぐ左側には、外へと通じる扉もあって、サフィリエルは今初めて、すぐ側に二つと扉が並んでいることに違和感を覚えた。
こんなにもすぐ側に、自由と束縛の扉が並んでいる。それはまるで、閉じ込められた身に、すぐ隣にある自由を思い知らせようとするかのようだ。
(それが目的なのかもしれない)
サフィリエルは思った。
以前の自分が、あんなにもなにも考えず、感じず、ただ白く、言われた仕事を黙々とこなすだけの存在でなかったら、二つの扉を見比べて我が身の有様に苦悩していただろう。丁度、今の自分がそうであるように。
(リフェール……)
本当に、なにかあったのかもしれない。
なにか、よくないことが。
なにか、とても悪いことが。
あの左側の扉を開けて外へ出て行けば、リフェールの身に起こっているなにかからリフェールを守ることができるかもしれない。
サフィリエルは歩きながら、外へと通じる扉を見つめ、そんな自分の考えを、ただの妄想と打ち払おうとした。
単に、少し遅れているだけかもしれない。なにか用事ができたのかもしれない。閉じ込められた自分とは違い、外にはそれこそ零れて溢れるほどの天使たちがいる。自分や多良太以外にも、リフェールの個人的な知り合いや友人がいるのかもしれない。今までいなかったとしても、今日、できたのかもしれない。
だから、明日にはきっと。
明日にはきっとまた、リフェールはここへ来てくれる。
そう自分に言い聞かせ、サフィリエルは、引き剥がすようにして視線を外ではなく内への扉に向けた。
そんなサフィリエルを、多良太が黙って見つめていた。
多良太の、胸が痛くなるほどに青い瞳は、どこか哀しそうだった。
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