『あんたさえいなかったら』
彼女を産んだ女天使は言った。
そして、
『罪人にこんなものいらない』
と、背中の翼を引きちぎられた。
二対の翼、全てを毟られ、背中から薄紅の血を流したあの日より前のことは、よく覚えていない。憶えてはいるが、それはまるで誰か他人の物語のようで、リアリティが薄い。
投げつけられた鋭い刃のような言葉の数々と背中の痛みも、夢の中の出来事のように感じることもある。それでも、その日から後、いつまでも痛む背中と当たり前のような暴力と暴言で、その日の記憶は、忘れがたい乾かない傷口となっていた。
『あんたさえいなかったら』
その言葉を思い出す度、それは今つけられた傷のように痛むけれど、リフェールは、部屋の真ん中に据えられた、彼女には少し大きすぎるベッドの上で膝を抱え、
(その通りかもしれない)
と思った。
まるい小さな膝頭の向こうは、灰色のベッドの先と黒い壁。壁には、黒いせいで目立たないが、なにかで斬りつけたような無数の傷がついていた。
リフェールがつけた傷ではない。おそらく、彼女の前の住人によってつけられた傷は、遠目にはわからないけれど、触れるとザラザラと皮膚に刺さり、その壁を傷つけた激しい感情に、指先から血が滲みでるような気がした。
彼女を産んだ女天使の元から離れ、一人で暮らすようになったこの高層マンションの一室は、あまりにも殺風景で、あまりにもズタズタだった。
寝室の壁だけじゃなく、家中いたるところの壁が鋭い刃物のようなもので傷つけられ、食堂の椅子は一脚を除いて、すべて脚がへし折れていた。その暴力の跡は、彼女に向けられたものではなかったが、それでも時折、自分に振るわれたもののように、彼女を怯えさえ、悪い夢を見せた。
だが、そんな悪い夢さえも昨日から見ていない。リフェールは眠ることもできずに、膝を抱え、唇を噛み締めていた。
(あたしさえいなかったら)
昏いまなざしで思う。
(あたしさえいなかったら、多良太も、サフィリエルも……)
傷つくことはなかった。
まだ二人は、なにも知らない。実際にはなにも起こってはいない。だが、それは避けようのない未来。
あの、凍りつくような黒い瞳の上級天使は、「二、三日後に」と言った。
だからそれまで。
(あの熾天使が、あたしとサフィリエルと多良太の場所に現れたら、全部おしまい。なにもかも、壊れてしまうわ)
多良太は連れ出されるだろう。そして調べられ、弄繰りまわされて、
(きっと、すごく辛い思いをするわ。多良太は泣くの? 泣くよね、きっと)
多良太の泣き顔を見るのは嫌だ。想像するだけで、自分の方が泣きたくなる。
サフィリエルは、うまくすれば、あのまま一人取り残されるだけかもしれない。
(だけど、多良太を奪われて、あたしに……裏切られたと知ったら、きっと、すごく傷つくわ。サフィリエルは、いつもなにかを悲しんでいるみたいなのに、本当にそんな酷い目にあったら、どれだけ悲しむかわからないわ)
それに、最悪の場合、卵を孵した罪を被って、罰せられるかもしれない。
(本当に罰せられるべきは、あたしなのに。卵を見つけたのもあたし。孵すように強く頼んだのもあたし。そうするように言われていたからって、実際にサフィリエルにそうさせたのは、あたしなのに)
サフィリエルを罪に問わないで欲しいと、ザファイリエルに懇願したことはある。宇宙の闇のような天使は、それに薄く笑った。「お願いします」と、消え入りそうな声で繰り返したリフェールに、「それは心配しないでいい」と曖昧に言って、後はもう、そのことを口にするのを許してはくれなかった。
心配しないでいい、と言ったのは、サフィリエルを罪に問うことはしないという意味なのか、リフェールが口出すことではないという意味なのかは、わからなかった。
(サフィリエルを、せめてそっとしておいてくれるならいいけど、そうじゃないなら……もし、あたしのせいで、サフィリエルが殺されるようなことになったら……)
リフェールは、これ以上ないくらいに強く膝を抱え込み、息を詰めた。
(そんなのダメ! そんなのダメ! だけど……)
「どうしたらいいの……?」
掠れた声で呟いて、リフェールは暗い色をした傷だらけの壁に目をやった。
そこに答えがあるわけでもないのに、いつまでもただ、見つめていた。
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