(本当は、ただ臆病なだけだ)
優しさなんかじゃない。臆病なだけだ。
わかっているが、そこから抜けだすことができずにいた。
(今だってそうだ。多良太が言いかけたことを、本当ならもっと執拗に追求するべきなのかもしれない)
いつか思い出す時がきたらと言いかけて、口を噤んだ多良太が、その時なにを思っていたのか、サフィリエルには想像もつかなかった。想像もつかないから、追及するべきかもわからない。わからないから黙っていることが、いいことなのかどうか、サフィリエルには本当にわからなかった。
ただ、このため息がでるほど幸せな日々が、永遠に続くわけじゃないことを予感して、未だ来ぬ日の悲しみに絶望すら覚えた。いつか訪れる不幸を予言するかのような多良太の言葉に、サフィリエルは、いいしれぬ悪い予感が胸に渦巻くのを感じていた。
いつまでも、このままではいられない。
いつか多良太の存在が知られて、それで罰せられ、引き裂かれる時がくる。その日のことを覚悟しているつもりだったが、それでも、その悲しみに耐えられるかどうか、サフィリエルには確信が持てなかった。
この、腕の中の光を失って、尚も正気でいられるか、自信はあまりなかった。
そして、サフィリエルがそれ以上なにか言う機会もないまま、パッときらめいた多良太の歓喜の声に、サフィリエルは物思いから引き戻された。
「サフィリエル、リフェールがいるよ」
白い卵海のただ中に、小さな黒い姿が、ポツリと幻のようにあった。
集積場の白い空を飛ぶサフィリエルとその腕の中の多良太に、小さなその人影は、懸命に腕を振っていた。
サフィリエルに抱えられたまま、多良太が負けじと腕を振り返し、サフィリエルは手を振る姿に向かって、まっすぐに下りていった。
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黒い都市の真ん中にある大聖堂へ向かう足取りが、ひどく重くて苦しいのは、押し潰されそうな罪の意識と、締め付けられるような恐怖が付き纏うから。
リフェールは、歩く者のない黒光りする舗装路を、ビルの陰に紛れて歩いていた。
穏やかに微笑むサフィリエルと、きらめく光そのもののような多良太に別れを告げて、黒い都市へと歩いていると、行く手にある闇に飲み込まれて溶けてしまいそうな気になる。
それでも、ついさっきまで確かにあった白い光と二人の声と仕草を思い出し、黒い絶望に立ち竦みそうになるのを堪えた。だけど、その光に満ちた記憶が、尚更に鋭く重い罪悪感へと繋がってしまうのも事実だった。
いつまでこんなことに耐えられるだろう。
リフェールはいつものようにそう思い、空を群れ飛ぶ羽虫のような黒い天使達を見上げて、挫けそうな心を奮い立たせた。
(だけどあたしは、なにがあってもって誓ったんだもの。どんなことをしたって、あたしは……)
そしてリフェールは、影と闇を塗り込められた大聖堂に辿り着き、既に通いなれたいつもの場所を目指した。
そこでは、冷たい目をした上級第一の天使が、彼女を待っていた。
闇よりも尚深く昏いその天使に見つめられると、ガタガタと震えだすのを堪えるのが精一杯だった。俯き加減に目を伏せて、凍りつくような瞳を正面から捉えるのを避けた。
「もう高速成長期は過ぎたんだな?」
「……はい」
ザファイリエルの問いに、リフェールは消え入りそうな声で答えた。
「ならば、そろそろ直接会ってみようか」
「えっ!?」
その言葉の意味が染み込む一瞬の間を置いて、リフェールは思わず顔をあげた。
「私が行こうか、それとも来てもらおうか。だが、お前と二人だと目立ち過ぎて、無事に辿り着けないだろうね。やはり私が迎えに行こうか」
「あの、でも、それは……」
狼狽するリフェールを見やって、ザファイリエルは、かすかに笑った。
「サフィリエルに裏切りがバレてしまうって?」
「!」
リフェールは思わず息を呑んだ。
時々、この黒い天使も、他人の心が読めるんじゃないかと思う。多良太が、本人の意図とは無関係に、時折そうであるように。
リフェールは、多良太に自分の心が読まれてしまうのが、なにより怖かった。
二人に黙って、ザファイリエルに頻繁に会っているということ。誰も知らないと思っている多良太の存在を知らせ、その動向を逐一報告しているということ。この、二人への裏切りを知られてしまうのが、なにより怖かった。
バレてしまえば、たとえ罪悪感に苛まれていても、それでも他のどこにいるより、なにをしているより幸福な時間を全て失ってしまう。
だから、多良太といる時は、極力考えないようにしてきた。だけど、それはひどく疲れることで、リフェールは、心からの笑いというものは、二度と自分には浮かべられないんじゃないかと思っていた。
(でも、時々……)
時々、多良太が自分を密かに見つめているような気がする。
それはとても悲しそうで、心を痛めているような視線。
気のせいだと、言い聞かせている。もし、本当に多良太がそんな風に自分を見ているとしたら、それはたとえ幾許かでも、リフェールの裏切りを知っていることになる。
だけど、多良太はもちろん、サフィリエルもなにも言わないし、多良太がそれと知っていて、サフィリエルに黙っているとも考えにくい。
だから、気のせい。
目の前の黒く冷たい天使が、やっぱり心を読むことができるなんてことも、有り得ない。
(だって、それなら、もう知ってるはず)
聞かれなかったから。
なんて、およそ認めてもらえないだろう理由で、敢えて黙っていたことを。
(知ってるなら、放っておくとは思えないわ。もう少し、なにか反応があってもいいもの)
だから、気のせい。全部、気のせい。
リフェールは自分に言い聞かせ、唇を噛んでまた目を伏せた。
ザファイリエルは、そんなリフェールの態度を諦めと見て、酷薄そうな薄い笑みを口の端にうかべたまま言った。
「いずれ知られる日がくることは、お前もわかっていただろうしな。では、私が迎えに行くことにしよう」
「あ、あの、いつ、ですか?」
「まさか今日ということはないさ。こちらにもそれなりの準備というものがある。だが、近々。そう、二、三日の内にはお邪魔することにしよう」
リフェールは、ザファイリエルの言葉に打ちのめされ、言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
二、三日。
たったそれだけ。
たったそれだけの時間を残して、全部壊れてしまうのか。
(多良太……サフィリエル……)
全部、壊れてしまうのだろうか。
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