「我慢してだしても、今更使い物になるかどうか、わかりませんしね」
そう言うルーダの黒い瞳に奇妙なきらめきを見て取ったティファイリエルが、思わず次の言葉を継げずにいると、それまで、二人の会話を面白くもなさそうに聞いていたラミエルが、口を挟んだ。
「なら、生粋の地天使は、空を飛ぶことなど不可能といってもいいのね?」
ルーダは、ラミエルに顔を向け、やけに自信たっぷりに頷いた。
「不可能です」
「根拠は、あるの?」
その、あまりにも自信ありげな言い様に、ラミエルが不審げに眉をひそめた。
「見ましたから」
「見た?」
「地天使の背中にあるのは、あれはもう羽じゃありません。あれはただの黒い塊。制御できない異物みたいなものです」
答えるルーダの脳裏には、あの日の光景が鮮明に蘇っていた。
あの、シェラの白くて美しい背中を食い破って現れた黒い塊。飛沫をあげる薄紅の血の色。思い出すだけでゾクゾクする。
ルーダの目の中に、その表情に、歓喜にも似た想いが宿っているのを見たのか、ラミエルはわずかに眉をあげ、それから、つと、ルーダから目を外した。
なんだか急に、この一見愛想のいい狩人の男が、得体の知れない恐ろしいものに思えた。
狩人という存在は、地上の天使たちの間で、特殊な位置を占めていると、彼らに対する地上天使たちの態度は、触れてはいけない恐怖へのそれであると、ここへ案内される前、あの下天使の拠点とした廃屋でティファイリエルに聞かされた時は、なにを大袈裟な、と思ったラミエルだったが、今になって、それは本当かもしれないと思い始めていた。
地上を統べる協力者として狩人達……その長を選んだのは、もしかしたらとんでもない過ちだったのかもしれない。と。
ラミエルと同じように感じたのかは定かではないが、ティファイリエルもまた、言葉を無くしたまま黙り込んでいた。
そうして、身じろぎすることすら躊躇われるような沈黙がただ行き過ぎ、長い長い二時間が経つと、アシェがレリエルを伴ってその部屋を訪れた。
「お帰りだ。送って差し上げろ」
扉が開く瞬間に立ち上がった黒い狩人の三人は、素早くその長に頷きかけると、遅れて立ち上がったティファイリエルとラミエルを促した。
「では、どうぞ」
片手で扉を指し示し、ルーダが言った。
部屋を出てすぐにあるエレベーターホールまでは、アシェがレリエル達を先導した。そして狩人の一人がボタンを押すと、アシェはレリエルを振り向き、彼にしては珍しく、冷笑ではない微笑を浮かべた。
「貴重なお時間をありがとうございました」
「いいえ。有意義な時間でしたよ」
「こちらこそ。今日お会いできて本当に良かった」
「私もですよ」
たとえ社交辞令にしても、こんなお愛想を言うアシェを、ルーダ達は見たことがなかった。ちょっとビックリしたような顔を、瞬間、見合わせて、ルーダは心の中で呟いた。
(よっぽど内容のいい話が、できたってことか?)
まさか、この女天使に惚れたってこともないだろうが、と声にださずに付け足して、レリエル達がエレベーター内に入るのを待って、自分もエレベーターに滑り込んだ。
ホールで見送るアシェの満足そうな顔に、ルーダは後で必ずその理由を聞こうと心に決め、
「それでは、お送りしてきます」
「頼んだぞ」
一礼して、ボタンを操作している狩人に頷きかけた。
ガクン、と一度揺れてから、エレベーターが下降を始める。
「話し合いは……いかがでしたか?」
どうやらうまくいったようだけれどと、ラミエルがレリエルの横顔に問いかけた。
「ああ、うん。まぁね」
横目でチラリとラミエルを一瞥し、レリエルは曖昧に呟いた。
「後で、話すよ」
その方が一度で済むからね、と付け足して、レリエルは口を噤んだ。ラミエルは、これ以上ここで問い詰めても意味はなさそうだと、少し不満ながらも、わかりましたと頷いた。
ラミエルが尋ねた時には、この場で、レリエルの口からなんらかのヒントが得られるかと期待したルーダは、正直がっかりしたが、とにかく、さっさとレリエルたちを送り届ければ、アシェから多少は話し合いの内容を教えてもらえるだろうと気を取り直した。
思わず来る時よりもペースを速めてしまいそうな歩みを意識して堪え、ルーダは刺々しい視線の空間を抜け、通りでは好奇と恐怖と憤りとで出来た複雑な視線を受けながら、下天使達の待つ古い建物へ、レリエル達を先導していった。
そして、レリエル達を無事送り届けて狩人の塔へと戻ってきたルーダは、いつもより人の多い玄関ホールで、期せずしてシェラを、見つけた。
パッと顔を輝かせ、嬉しそうに手を振って、シェラを呼んだ。
「シェラ、シェーラ、丁度いい。話があるんだ」
と、ルーダの姿を見た途端、シェラは言葉も聞かずに踵を返した。
向けられた背にある傷痕に、あの日を思い出し、一瞬、突き上げるような興奮が体を突き抜けたが、そのことは無視して、ルーダはわざと嘲るような口調で言った。
「逃げるなよ、シェラ」
途端、シェラの足が止まる。勢いよく振り返ったシェラの瞳には、燃えるような怒りがあった。
「逃げる!? あたしが?」
「話があるんだよ、シェラシン」
シェラの怒りの視線を意にも介せず、ルーダがニコニコ顔で言った。シェラは益々怒りに頬を紅潮させ、斬りつけるように吐き捨てた。
「あたしはないわっ」
「そう頭ごなしに決め付けるなって。絶対、お前の興味ある話なんだからさ」
忌々しげに眉根を寄せ、シェラは尊大に促した。
「なら、さっさと話して」
ルーダはそんなシェラの態度に、怒るどころかやけに嬉しそうに顔を綻ばせ、共にレリエル達を送ってきた二人の仲間に、軽く手を振って別れを告げると、内緒話をするように、シェラに少し身を寄せた。
思わずわずかに身を引いたシェラに、また少し近づき、声を潜める。
「下天使のリーダーは知ってるだろう?」
「ああ、あんたがさっき送り迎えしてたって話なら聞いたわ。四枚羽の智天使様とやらでしょう。それがどうしたって言うの」
「シェラ、あの女、卵持ちだぜ」
「卵持ち!?」
思わず、怒りを忘れて聞き返したシェラに、ルーダはにんまりと笑った。
「興味あるだろ?」
「確かなの? それ」
「俺が卵持ちを見分けるのが得意だってことは知ってるだろ。さっき直接会ってわかったんだ。間違いない、確実だよ」
ルーダは以前、卵人狩の前夜に、シェラの慰みものにするために、シェラの望む卵持ちの女天使を見つけたことがある。シェラもその時のことはよく憶えていた。
「そう、そうなの……」
呟き、考え込むように目を伏せたシェラは、ふと、訝しげにルーダを見やった。
「なぜ、わざわざあたしにそんなことを教えるの」
「そりゃ、お前が興味持ちそうだなって思ったからだよ」
「どうして、あたしに興味を持たせようとするの。あんた、知ってるんでしょう!?」
シェラが、ルーダと正反対の立場にいること。下天使だろうが地天使だろうが、地上の統治に反対するグループの一員だということを。
ルーダは肩を竦め、
「そりゃまぁな。けど、興味を持てば、あの女を殺そうとするの、少しは躊躇ってくれる、とか」
あまり期待はしてないけどな、と笑ったルーダに、シェラは再び怒りを燃え上がらせた。
「それなら、期待するだけ無駄よ! 卵持ち? あの女を殺す理由が増えるだけだわ」
言い捨てて、シェラは今度こそ足早に立ち去った。
「……だと思ったよ」
その姿が見えなくなる頃、ルーダがひそかに呟いた。その顔には、満足そうな微笑が浮かんでいた。
シェラがもっと激しく、もっと強く怒りを燃え立たせるといい。シェラが怒りの炎ですべてを焼き尽くそうとする時、その姿をもっとも間近で見ていたい。たとえ、その炎でこの身が滅びたとしても。
その日は、そう遠くない気がしていた。
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