無邪気そうな面立ちの天使、地上名を未だ名乗ろうとはしないティファイリエルは、近づくルーダの黒い姿と、それを避けて遠のく他の天使たちとを見やり、これも原因の一つかもしれないと思った。
地上の天使を纏め統べるのに狩人の長が失敗したのは、彼らが必要以上に恐れられ、避けられていることが原因だったのかもしれない。狩人とその他の地天使達たちの間には、埋めがたい溝があるように、ティファイリエルには感じられた。
レリエルに忠告したティファイリエルの背中に、今は翼はなく、服装が極端に地味なことを除けば、他の地上天使と変わりがないように見えた。そして、ティファイリエルが羽をしまっているのは、それが理由なのかもしれない。
「お待たせしましたか?」
ティファイリエルの天上での階級、権天使、を意識してか、敬語で声をかけたルーダに対し、ティファイリエルも何故か敬語だった。
「いえ、それほど待っていませんよ」
年上だから、というわけでもないだろうに、ティファイリエルはルーダに同等以上の態度を崩そうとしなかった。
ルーダはティファイリエルの所までやってくると、当たり前のように隣に腰をかけた。
「それならよかった。返事を持ってきましたよ」
「長はなんと?」
「会見自体は了承しましたよ。ただし」
「ただし?」
「こちらから伺うのではなく、こちらに来ていただきたい」
「あなた方のビルに?」
「狩人の塔って呼ばれてますけどね」
「それは……」
ティファイリエルが逡巡するのは、殆どが潜在的あるいは顕在的敵なこの地上で、唯一の自分達の領域であるあの場所から、この計画のトップであるレリエルを連れだしても大丈夫かどうか疑問だからだろう。この招待自体が、寝返った狩人の長の罠である可能性もゼロとはいえない。
ティファイリエルの内心を見透かしたように、ルーダが言った。
「大丈夫ですよ、心配なら護衛をつけますしね。うちの長は例の卵が孵るのを、そりゃもう滅茶苦茶恐れてますからね。今更裏切ることなんて有り得ませんよ」
「そんなことは……」
考えてないと言いかけて、取り繕っても無駄と悟ったのか、ティファイリエルはわかりました、と頷いた。
「とにかく、一度確認してみます。返事はまたここで、二時間後に。それでいいですか?」
「いいですよ。日時の方はお任せしますから」
「わかりました。それじゃあ」
と言って、ティファイリエルは立ち上がった。そして、同時に立ち上がったルーダを見上げ、かるく会釈をすると、すぐに背を向けて歩いていった。ルーダは、ティファイリエルの背中がビルの狭間の薄闇に溶けるのを待って、元来た道を戻ろうと踵を返した。
そしてルーダが、広場から、狩人の塔と呼ばれる高層ビルへ続く、ビルとビルとの狭い路地に足を踏み入れた時だった。
「あんな奴等、信用できないよ」
ビルの陰から滲みだすように現れて吐き捨てたのは、今別れた天使よりも更に歳若い小柄な天使だった。たっぷりとしたシャツも、ショートパンツも、膝下のブーツも、全て黒で統一されているのは、この少年もルーダと同じ、狩人と呼ばれる集団の一員の証拠だ。
「そうか? どの辺が?」
まるで、最初からそこにいるのがわかっていたかのように、ルーダは軽い調子で、その天使、フィム・緑守(ロクシュ)に問いかけた。ルーダを見上げ、フィムはかるく唇を噛んだ。
「……だって、信じられるわけないじゃない」
「なにか根拠でもあんのか?」
「だって、いきなり下りてきて、進化の卵とかなんとかが孵ると困るから、全部管理させろなんて勝手なこと言うしさ、それに、なんか……とにかく、信用できないよっ」
フィムが闇雲に反発する理由など、ルーダにはわかっていた。先ほど立ち去った下天使と自分が頻繁に会って、ああして一見仲よさげに並んで座っているのを見て、単に嫉妬しているだけだということは、わかっていた。ルーダは、もう少し突っ込んでいたぶってやろうかとも思ったが、ふいに気が変わって、わずかに苦笑をうかべた。
「お前は、単にあいつが気に食わないんだろ」
「そうだよ。だってルーダ、最近やけに親しそうなんだもん」
あっさりと認めるところは、素直でいいのかもしれないが、いくらフィムがルーダに想いをかけても、致命的に受け入れられないものがある。
「嫉妬するだけムダだって。俺は、男性体には興味ないしな」
それは、ティファイリエルは勿論、フィム自体も拒む言葉だった。
フィムは、甘えるように、上目遣いで小首を傾げた。大抵の相手ならこれで心を動かしたりするのだが。
「男の体だってだけでダメなの?」
ルーダは笑ってあしらった。
「お前だってそうじゃないか。女だってだけでダメなんだろ」
「そんなこと。ぼくは……」
言いかけたフィムを遮って、ルーダに言われた言葉に、フィムは虚をつかれた。
「俺のこと、好きだ好きだって言う割には、俺の好きな女にはならないよな、お前」
「ぼくが、女に?」
そんなこと、考えたこともなかった。
フィムは、ルーダの指摘に、大きな目を更にまんまるに見開いて絶句した。
ルーダは、試すように、挑むように、口の端を歪めて笑った。
「なってみりゃ、俺だってその気になるかもしれないぜ?」
「ぼくが……?」
フィムは暫し考えこみ、突然、ゾッとしたように身を震わせた。
「無理だよ! そんなの、できない!」
女になると考えただけでも吐き気がする。嫌悪感を打ち払うように、激しく頭を振ったフィムに、ルーダはだろうな、と笑った。
「お前はそうだろうな。けど、男のままならこの先も俺はお前を仲間以外の目では見ないぜ。俺のこと好きだっつっても、女にはなれない程度でしかないんなら、俺のことは諦めて、他に相手を探せよ」
自分の想いを、「そんな程度」呼ばわりされたフィムは、一瞬、息をするのも忘れた。
サッと顔から引いた血の気が、心臓に集って激しく脈打つ。手足がかすかにふるえた。
「じゃあ……」
ふるえたのは手足だけじゃなかった。ショックにふるえる声をどうすることもできず、フィムは口を開いた。
「ルーダはどうなの? ルーダは、あの女のために女になれるの?」
拒絶されても拒絶されても、ルーダが今ひたすら追いかけている女天使。女以外は興味がないと公言して憚らないあのシェラのために、やはり選択が可能になってからずっと男性体で通してきたルーダが、今更女になれるのかとフィムは問い質した。
「俺も無理だ」半ばそう答えられるのを期待して口にした問いに、ルーダはあっさりと言った。
「俺はなれるぜ」
「嘘」
フィムは、殆ど反射的に否定した。
だが、ルーダは、どこか晴れ晴れとした笑顔さえ見せて、フィムの言葉を一蹴した。
「嘘じゃないって。俺とシェラはずっとそれで賭けをしてるんだぜ? 俺が勝つとは思ってるけど、例え負けて女になっても、相手がシェラなら不足はないしな。それに俺、自分でもかなりいい女になりそうな気がするんだよな。お前はそう思わないか?」
「……思わないよッ」
叫ぶように答えたフィムは、今にも泣きだしそうに見えた。ルーダは、あくまでも楽しそうな態度のまま、
「そうか? イケると思うんだけどなぁ。ま、いいや」
フィムにくるりと背を向けて、ヒラヒラと後ろ手に手を振った。
「じゃあな。お前は、諦めろよ」
最後のセリフに、またしてもザックリと傷ついて、フィムは立ち尽くした。
後を追うことも、声をかけることもできなかった。
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