レリエルは、ゆっくりと羽ばたきを緩め、一人になった門番の天使から少し離れた場所に下り立った。
のんびりと、どこか嫌々ながらにも見える足運びで近づくレリエルに、シグフェルが待ち兼ねたように声をかけた。本当は、先に声をかけられるまで待つつもりだったのだが、つい、気が急いてしまったようだ。
「お待ちしておりました、レリエル様」
レリエルは、声をかけられてから尚、黙って二、三歩、歩みを進めてから、どうでも良さそうに頷いた。
「ああ、うん」
「皆、すぐに駆けつけるはずです」
シグフェルの言葉に、レリエルはちょっと眉をあげ、壊れた扉をくぐりながら、ため息をつくように言った。
「そんなに急がなくてもいいのに。まだ寝てるんじゃないの?」
「レリエル様がお着きになったら、いつ何時でもすぐに知らせることになっておりましたから」
「ふぅん」
「入りまして、二つ目、右側のお部屋でお待ちください」
レリエルはわずかに顎を引いて頷くと、相変わらずゆっくりした歩調で、正面扉から続く、長い廊下を歩いていった。
廊下の照明は、抜け落ちた歯のようにところどころ壊れてついておらず、斑な闇が、天上や床の隅にわだかまっていた。リノリウムの床はくすんだ灰色で、ヒビ割れたり剥がれたりしていて歩きにくい。壁や天井にも亀裂が走り、今にも崩れおちそうな気がした。
おそらくこの建物は、既に廃屋として打ち捨てられていたのだろう。こんな、本来ならば中で暮らすことは避けたいような建物くらいしか、空いている場所を見つけられなかったらしい。天上も地上も、ひしめきあう天使たちに、今にも破裂しそうだ。
指示された部屋の扉もまた、かろうじて原型を留めているといった代物だった。五センチほどの木の扉で、塗装はすっかり褪せて剥がれ落ち、鈍色の取っ手は錆びてザラついていた。
レリエルは、錆ついて軋む扉を押し開き、部屋に入った。
部屋の中は暗かった。正面に窓が一つあり、そこからあるかなきかの薄明かりが差し込むばかりだ。レリエルは、壁を手探ってスイッチを探した。扉の左側の壁にそれらしき感触を見つけて押す。
ジジジ、
虫が鳴くような音をたてて、明かりがついた。細かく明滅する、黒ずんだ四角い照明が、天井から部屋の中を照らしだした。
応接室かなにかだったのだろうか。一応、埃だけは払ってあるようだったが、それだけだった。
古い応接セットが部屋の中央にあって、布張のソファは、元の布地の模様も色合いもまったくわからないような状態だった。
レリエルは、その、単なるゴミといってもいいような代物まで歩み寄り、背中の羽をしゅるりと皮膚の内側にしまいこんで、ため息をつくように腰をおろした。
ソファのスプリングは、思ったよりしっかりしていた。背もたれに体を預けて、ぐったりと沈みこむレリエルを支えても、わずかに音をたてただけだった。
レリエルはホッとして、軽く目を閉じた。
そうして、束の間の休息を自分に許してから幾許もなく、ノックの音がした。嫌々ながら目を開けたレリエルは、閉め忘れて開きっぱなしの扉の向こうに、小柄な天使の姿を見つけた。
「よろしいですか?」
そう言いながらも、既に部屋の中に入ってきている。
少女のよう、というほどではなかったが、どこか女性的な優しげな顔立ちはまだ若く、その未完成の体つきからしても、かなり歳若い部類に入るのだろう。とはいえ、天使の成長速度からすれば、地上の卵人ならば老衰で死んでいるような歳かもしれない。髪は短く、子犬のような大きな目で、無邪気そうな微笑みを浮かべている。
「随分、早起きなんですねぇ。ビックリしちゃいましたよ」
レリエルは、諦めたように嘆息して、面倒臭そうに答えた。
「ああ、ティファイリエル。こっちは、こんな時間だっていうのに、見張りがいて、全員呼び集めようとすることに驚いたよ」
ティファイリエルは、おかしそうにフフッと笑った。
「レリエル様の下天だけを見張ってたってわけでもないんですけどね」
「そんなに剣呑な状態?」
「まぁその辺は、全員集まってからにしましょうよ。皆もそろそろ現われるでしょうから」
ティファイリエルは、階級的にはかなり目上の者からの問い掛けだったのにも関わらず、軽い調子で即答を避けた。他の相手なら、不遜な態度と叱責されても当然だが、レリエルは、特に腹を立てた様子もなく、どうでもよさそうに肩を竦めただけだった。
そしてティファイリエルの言葉通り、それからすぐに、他の者達も続々と姿を現わし始めた。最初に見かけた二人の門番以外、全員が揃っているようだ。
ティファイリエルの次にやって来たのは、ティファイリエルと同じく、権天使のラミエルだった。
いつもは床まで届くような長い黒髪を複雑な形に結い上げている、褐色の肌の鋭い刃のような女天使だが、さすがに今は寝起きらしく、少しクセのある髪を後ろで束ねているだけだ。髪型を整える時間がなかったからだけではないだろうが、彼女は明らかに不機嫌さを周囲に発散させていた。
その次に現れたのは能天使のクシフェルだった。黒檀の肌に、ギリシア彫刻のように精緻な容貌。無駄のない筋肉質の肢体。肩口まである黒い巻き毛を指先で軽く掻きあげながら戸口に現れた彼は、不機嫌ではなかったが、明らかにまだ眠たげに欠伸をかみ殺している。
それから、最後にやはり能天使のハマエル。とろりと甘い優しげな顔立ちに、琥珀色の肌。背はあまり高くないが、均整のとれた体付きをしている。少し長めのショートヘアで、前髪は目にかかりそうだ。どこか楽しそうな瞳の色は、あまり今起きたばかりには見えない。
三人は、順に室内に入ると、レリエルの前に並んで立った。
ティファイリエルを初め、四人共が背中に黒々とした翼を生やしているのに、レリエルは気づいた。夜眠る時は、天上でも羽を仕舞って休むのが普通。早朝、寝ている時を叩き起こされたのなら、羽は仕舞ったままでいそうなものだ。疑問には思ったが、それをわざわざ訊くのも面倒だ。
「こんなに朝早く着くとは、思っていませんでしたわ」
苛立ちを滲ませて言うラミエルに、レリエルはうんざりしたように、おざなりに頷いた。
「ああ、そう」
一瞬、天使特有の黒い瞳に怒りを閃かせ、レリエルの謝罪か弁解を待つかのように少し口を噤んだラミエルは、それ以上待ってもレリエルから期待するような反応は得られないと悟ると、少し八つ当たり気味の口調で、ティファイリエルにサッと手を振った。
「揃ったわ。始めて」
促されたティファイリエルは、にっこりと微笑んで口を開いた。
「それじゃ、現在の状況から説明させていただきますね。有り体に言って、厳しい状況です。地天使の反発はかなり根強く、強固です。元は天上生まれの下天使の中には、協力的な者達もいるにはいますが、完全な地上生まれの者達の協力を得るのは、おそらく難しいと思いますよ。下天使でさえも、今更天上の秩序で、地上の自由を侵されるなんて以ての外だという意見が主流ですし、地天使ともなれば、地上と天上はもとより全くの別物という認識のようですしね。それなら、地上独自の管理体制を、といっても、今の勝手気ままな自由を奪われたくないと反発しているそうで、唯一ある程度のまとまりのある集団の長……その集団は狩人とかって称して、その天使は狩人の長って言われてるそうですけど、まぁその天使がそれを試みた際も、激しい抵抗にあって、おかげでその地位も危うくなっているとか。今では、ともかく地上に氾濫する卵を回収して、焼却処分する作業だけで手一杯のようですよ。それでも、隠れて産み落とされた卵まで全て見つけだすのは難しいみたいですね。それも無理はないと思いますけど。ともかく、今のところ手詰まりといってもいいですね。以上です」
一気に語られたティファイリエルの説明を、レリエルは頬杖をつき、聞いているのかどうか定かではない無表情で聞き終えた。以上です、の言葉を聞いても、少しの間、黙って微動だにしなかった。
痺れを切らしたラミエルが口を開きかけた時、レリエルがようやく、ため息をつくように呟いた。
|