進化の卵  
2章「暗黒の天使」
 
 
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2-8


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 その頃、狩人の塔と呼ばれる高層ビルの別の一室で、数多いる狩人の中でも凄腕と称される一人の女天使が目覚めた。
 寝ている間に、腰の周りを覆うだけになったシーツを、鬱陶しそうに引き剥がし、シェラ・真久(シンク)は、なにも身に着けていない均整のとれた体を滑らせるようにして、ベッドの端に腰掛けた。肩口で切り揃えた黒髪は、寝起きにもかかわらずまるで乱れていない。紅を引かずとも赤い唇は、不機嫌そうに引き結ばれていた。
 シェラは、一度、ぎゅっと眉を寄せると、流れるような所作で立ち上がり、ベッドの足元側の壁際に備え付けられた、埋め込み式のクローゼットから、光沢のある合皮の黒い服を取り出した。
 服といっても、体を覆う部分は少なく、その見事な曲線を強調するかのようにピッタリと張り付くようなつくりになっている。体を締め付けるタイプの服を着ると、気持ちの方もきつく引き締まる気がした。
 シェラの背中には、二つの大きな傷跡があった。
 この傷をつくった後、数日間意識が朦朧として寝込んでいたが、ようやくハッキリと意識を取り戻した時、シェラは、傷跡を隠すような服を身に着けることを拒んだ。元々、背中が隠れるような服は殆ど持っていなかったが、数少ないそんな服は、全てクローゼットから取りだし、捨ててしまった。
 その傷跡を見る度、シェラの中で流れだす溶岩のような想いが渦を巻く。
 怒り。屈辱。復讐。
 シェラの中でのた打ち回り、猛り狂うその想いに付ける、正確な名前など持たなかったが、シェラはその想いを決して手放すまいと思った。この想いを失った時、そこになにが残るのかと考えると、ゾッとするほど嫌だった。
 シェラは、今日もまた鏡に映して自分の傷跡を確認すると、その身を焦がす想いに、一日の活力が沸いてくるのを感じた。
 そして、膝上までのロングブーツを履き、高いヒールの音を響かせて、部屋を出て行った。


 部屋を出て、灰色の斑模様に汚れた廊下を歩き、エレベーターホールに着いたシェラは、赤いマニキュアの光る指で、下へのボタンを押した。
 途切れがちのモーター音と共に、壊れかけのエレベーターが到着すると、シェラはその中に、馴染みの女天使の姿を見た。
「今、お目覚めかい?」
 シェラを確認して、エレベーターの中から、無造作なカールヘアの女天使が声をかけた。
 上はベアトップ、下は細身のパンツを履いて、色は当然のように黒い。オニキスが連なる長いネックレスを、何重にも首に巻いていた。
 シェラに声をかけた女天使、アイカ・灰涅(カイネ)は、唯一、シェラの友人といってもいい存在だった。
 シェラは、快楽を満たす相手に、いつも女性体の天使を選ぶ。弄んで最後には必ずその手にかけて殺すから、女天使達からは警戒されていた。目を付けられて、殺されるのはゴメンだと。中には、自らシェラに殺されてもいいと近寄ってくる者もいたが、アイカはそんな連中とも違っていた。にも関わらず、彼女がシェラと悪くない付き合いを続けてこられたのは、アイカがシェラと同じ性癖の持ち主だからに他ならない。つまり、同性の女天使を性愛の対象と見做し、その殺害において絶頂に達する性癖があるということだ。
 かといって、同じ趣味なばかりに、相手を取り合いになって揉めるという事は一度もなかった。シェラの狩人としての腕を恐れているということもあるのかもしれないが、アイカは、
『代わりなんていくらでもいるしね。わざわざ揉める意味なんてないだろ』
 と、稀に標的が重なっても、あっさりと身を引くのが常だった。
 シェラは、エレベーター内に足を踏み入れながら、アイカに応えた。
「そんなところね」
「丁度いい。後で知らせてやろうと思ってたんだよ」
 シェラの背後で扉が閉まり、小刻みに震えながらエレベーターが下降を始めた。
「なんの話?」
 問われて、アイカは、ニッと口の端を吊り上げて笑った。
「下りてきたんだよ、最後の一人がね。今朝、まだ暗い内に下りてきたそうだ。いよいよ本格的に始まるってことだね」
 それは、下天使による統治の始まりを言っているのか。だがアイカの笑みは、それ以外のことを示唆しているようだった。
「智天使だかなんだか知らないけど、そんな呼称一つであたしたちをどうにかできると思ってるんなら、そんな甘ったれた考えは叩き潰してあげなきゃね」
「後悔するだろうよ、きっとね」
 見交わす二人の女天使からは、染み付いた血の匂いが立ち上ってくるようだった。
 その匂いは、一生纏わりついて離れることはないだろうし、二人とも、それを拒むつもりはなかった。
 染み込んだ血の匂いは、どんな香水よりも甘く芳しい。


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 レリエルが地上に下りて最初にしたことは、先んじて下りていた配下の天使達の現況報告を聞くことだった。
 とはいえ、それを彼女が自ら進んで求めたわけではなく、レリエルが下り立ったと同時に、待ち兼ねたように彼らが報告することを求めたのだ。
 天上はいざしらず、地上はまだ明けきらぬ闇の中。
 空から見ると、交差部分が円となった十字架の形をした古びた建物は、地上の天使にとっては見つけにくい、たった四階建ての建物だったが、その特徴のある上空からの形で、レリエルにはすぐにわかった。
 十字架の先端、持ち上げれば一番上になる部分に入口があった。
 入口の扉は両開きだったが、片方は既に上部が外れて傾いたままだった。外界と内とを隔てる意味を成さない扉の前に、門番らしき天使が二人、立っていた。
 彼らは、レリエルが選抜して下天させた天使たちの二人で、正面から見て右側、長い黒髪を首の後ろで束ねているのが、能天使のラドキエル、左側のゆるく波打つ髪を肩口まで伸ばしているのが、同じく能天使のシグフェルだった。双方とも地上の天使にありがちな派手で露出度の高い服装というわけではなかったが、それでも、天上ではおよそ身につけたことのないであろう、浅葱色を基調としたどこかの制服のような服を着ている。
 そしてその背には、一対の黒い翼。
 地上に下りても尚、翼を背に生やしたままなのは、この任務が一時的なもので、いずれ天上に帰ることを願っているからだろうか。
 彼らは、重く垂れ込めた暗灰色の雲を背景に、黒い染みのようなレリエルの姿をほぼ同時に認めると、ハッと目を見開き、一瞬、顔を見合わせた。  
 と、すぐに、ラドキエルがシグフェルに頷きかけ、素早く踵を返し、片側が壊れた扉を開けて、薄暗い建物中に駆け込んでいった。  





   
         
 
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