「ああ、もういいよ。したいなら勝手にすればいい。明日には下りるよ」
「本当ですか? 明日のいつ頃?」
「夜に。そのくらいは許してくれるでしょう?」
白日の下、多くの視線に晒されてではなく、夜の闇に紛れて天上を去ってもいいだろうとレリエルは言うのだ。ラグエルは、ともかくはっきり下天すると言質をとったことに安堵して、大きく頷いた。
「それは、もう。お好きな時間を選んでいただいて結構です」
「そう。じゃあ、用件はそれだけだよね。見送りはしないよ」
明らかに帰れと促されたラグエルに異論はなく、ラグエルは一礼して、踵を返した。
ラグエルが出て行ったことを、閉じた扉の音で確認したレリエルは、黒いローヴの上から、自分の下腹部にあいている方の手を当てた。
一日中だるくて眠気に襲われる原因が、そこにあった。
レリエルは、下腹部を静かに撫でさすりながら、自嘲気味にそっと笑って、目を閉じた。
そして次の日の夜、今度はザファイリエルと共に、バルコニーからレリエルを訪ねたラグエルは、約束に反して、既にレリエルが部屋を出た後なのを知った。
当日の夜か、次の日の明け方か、まさか昼日中からということはないだろうが、とにかく、その部屋は空っぽで、メッセージ一つ残されていなかった。
よっぽどひそかに下りたかったのでしょうかと、開け放たれた窓から室内に入り、灯り一つない暗い部屋を見回しながらザファイリエルに声をかけると、ザファイリエルはそういうわけでもないだろうと言った。
「最後に、ちょっとした意趣返しを狙ったのかもな」
「ですが、下天を見届けることができなかったとなると、本当に地上に下りたのかの確認が取れませんが」
「あいつは下りたさ、絶対にな」
ザファイリエルの確信に満ちた口調は、ラグエルの知らない事実の存在を物語っていた。
「なにか根拠がおありなんですか?」
「そういうことだな」
ザファイリエルは頷きながらも、それ以上のことを話すつもりはないようだった。ラグエルは、暫く、ザファイリエルがその根拠について話すのを待ってみたが、どうも無駄なようだと悟ると、諦めてそのことは気にしないことにした。
ザファイリエルが下りたと明言したのなら、自分があれこれ考えたところで無駄なことだ。万が一、レリエルが下天することなくどこかに隠れ潜んだのだとしても、すぐに地上からの連絡でそれとわかるし、その時に責任を取るのは、自分ではなくザファイリエルの方だ。
ザファイリエルは、ラグエルの胸の内を見透かしたように、わずかに目を細めたが、なにも言わず、主を失った空虚な部屋の中、地上に下りたけだるげな女天使の面影を、その暗闇に見ていた。
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数週間が経った。
多良太は、今ではもうリフェールと変わらない年恰好になっていた。身長は、リフェールよりも少し高いくらいだった。そして急速な成長は速度を緩め、これからは長い長い時間をかけて成長していくはずだった。
小さな部屋を二人で出て、近ければ歩いて、遠ければサフィリエルに抱えて飛んでもらって、多良太は、サフィリエルが卵を数えるのに、いつもついてまわっていた。
リフェールと違って、傍にいる間ずっと、あれこれと話しかけてきたりはしなかったし、時々考え込むように口を噤んでいることも多かったが、ただ一緒にいるだけで、その姿を見るだけで、サフィリエルはいつも幸せを感じずにはいられなかった。
そして、サフィリエルがいつものようにクリップボードを片手に、ケースに入った卵を数え、確認していると、その傍らにしゃがみこんでいた多良太が、ふいに口を開いた。
「ねぇサフィリエル、リフェールを許してあげてね」
その言葉の唐突さに、サフィリエルは一瞬、なにかの聞き間違えかと思った。多良太の横顔を見下ろして、サフィリエルは訝しげに聞き返した。
「今、なにか言ったか?」
多良太は、卵の一つに熱心に見入りながら、囁くように言った。
「もし、裏切られたと思ったとしても、許してあげてね」
「……許すもなにも……なんのことだ?」
わけがわからず戸惑うサフィリエルを、ようやく卵から目を離して振り仰ぎ、多良太は悲しそうな顔でかぶりを振った。
「ごめん。なんでもないんだ。でも、でも、もしも……もしもいつか、今ぼくが言ったことを思い出すようなことがあったら……ううん、忘れて」
それきり、サフィリエルが重ねて尋ねても、多良太はただ首を振るだけだった。
本当は、それ以上の言葉を引きだせるまで、しつこく問い詰めた方がいいのかもしれないとも思ったが、サフィリエルは結局、リフェールがなにか隠していると感じた時と同じように、口を噤んだ。
ずっと、訪れる者も殆どないこの場所で、会話も、独り言も、思考さえすることなく、ただ卵を数え続けていたせいなのだろうか。サフィリエルはこんな時、どうしていいのかわからず途方に暮れてしまう。言葉が凍りついて、なにも言えなくなる。
だからサフィリエルは、胸の奥にわだかまる暗い予感を押し殺し、光に透けるように悲しく微笑む多良太を、ただ見つめた。
そして、多良太の今の言葉を、思い出し、そうだったのかとわかる時がこないことを願った。
祈る相手の名はわからないから、ただ願った。
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それは暁降。
夜が更けゆき、つるばみ色の空の東が薄く鶸色に染まりつつあった。青みを帯びて白く輝く夜光雲が、彼方にポツリポツリと浮かび、星々は東から、一つまた一つと薄れて消えていく。
レリエルは、暁月夜の朧な光を受けて、自宅のベランダから暗黒の都市を見渡した。
黒い天使たちの住む都市は、星明りを受けても尚暗く、全ての光を吸い込む真の闇のようだった。
闇の中心に建つ荘厳な大聖堂。
思いつめたような表情でその大聖堂を見やったレリエルは、フッと視線を落とし、ゆっくり背中の主翼と副翼を交互に動かすと、爪先で地を蹴って、ふわりと宙空に身を躍らせた。
東の空から溶けていく夜の残滓が暗黒の都市のそこかしこにわだかまり、その闇からひどく暗い想いが生まれ出でているような気がした。
そしてレリエルは、朝未き天上の都市を見下ろしながら、これが見納めになるのだろうと思っていた。
名残りを惜しむように、ゆっくりと都市の果てまで飛んだレリエルは、都市から切り離されたかのように建つ、巨大な建物に目をやった。
天上で産み落とされた卵たちを閉じ込めた、氷の牢獄。
いつ孵されるかもわからない卵たちだが、それでも、それ以降に産み落とされたものよりは幸運なのかもしれない。この集積場に集められた卵以外は、見つかり次第焼却処分されるのだから。その点、彼らにはまだ希望がある。例えどんなにわずかでも、いつか生まれることを許されるかもしれない希望が。
この壊れた世界に生きることが、幸運だったとして。
レリエルは、集積場の上をゆっくりと旋回し、それから、黒い翼でその身をくるみこみ、一条の黒い矢と化して、雲を突き刺し降下した。
黒い天上の都市を乗せた層積雲を抜けると、そこは未だ完全な夜だった。
地上側の雲は暗い灰色で、黎明の光など届かない。
今にも崩れ落ちそうな、あるいは半ば崩れかけた、あるいは既に瓦礫の山となった灰色の都市は、安っぽい人工の灯りに照らされて、幽鬼のように闇の中に浮かんでいた。
レリエルは、雲を抜けてまだ少し降下してから、その身を包んでいた翼を開き、初めてその目で地上を見下ろした。その時、柔和そうな造りの相貌に浮かんだのは、嫌悪と、それから恐れだろうか。
この、汚れて腐りかけた灰色の世界で、この先ずっと過ごしていかなければならないのかと思うと、ゾッとする。自分に託された使命は、一筋縄ではいかないだろうし、自分が選んで共に地上に下ってもらった者達も、未知の世界での心強い仲間というわけにもいかないだろう。寧ろ、地上への下天を命じられたことで、恨んでいるかもしれない。
だが、今更引き返すわけにはいかない。
(他に、道はないのだものね)
夜は、まだ明けない。
地上の夜は、暗く、長かった。
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