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ラグエルは腹をたてていた。
自宅のある高層マンションの屋上から空へ飛び立とうと思い、屋上へ通じる重い扉を開けた彼の耳に、壁の反対側から、明らかにその最中とわかるあえぎ声と荒い息が聞こえてきたのだ。お蔭で、たまには気分を変えて、自室の窓からではなく、屋上を使って気持ちよく羽ばたこうとしていたラグエルは、すっかり気分を害してしまった。
天使達の欲求は、大きく二つに分かれる。
犯すことと殺すこと。
大抵の天使は、そのどちらも存分に持ち合わせていたが、ラグエルには殆ど性的な欲求がなかった。その分、破壊と殺戮への欲求は、時に自分でも抑えがたいほど激しい。
とうに最大容量を超えて、その種族の器の縁からボロボロと零れ落ちている天使達。それを考えれば、交わってまた無駄に卵を産み落とす者達より、その数を減らす手伝いをしようという自分の欲求は、はるかに種族にとっていいこと。善行を施しているようなものだというのが、ラグエルの持論だった。
だが、たとえ破壊と殺戮の欲求が、種族全体に共通のものだとしても、自らの欲望の赴くままに同族を殺害することは禁じられていた。少なくとも、公には。誰も見ていないところで、ひそかにその欲求を満たすのなら、特に咎めだてされることもないが、どこもかしこも天使で溢れかえったこの世界で、誰にも見つかることなく実行するのは至難の業だった。
地上でなら、そんなこともないという。
地上では、同族だろうが卵人と呼ばれる別種族の者だろうが、咎められることなく殺せると聞いた。特に、「狩人」と称される集団に属すれば、大々的な殺戮さえも許されていると。
それを聞いた時は、ラグエルも本気で地上に下りることを考えたが、この天上で定められた階級を、平凡な一対の翼しかない自分が、上れるとこまで上り詰めるというのが、彼の長年の野望だった。その野望を完全に諦めるようなことがない限り、激しい飢えにも似たこの欲求を抑えつけ、天上に残ろうと決めていた。
だが、殺戮への欲求を抑えれば抑えた分、性欲への嫌悪感が増し、その現場は勿論、話題に上るのさえ彼は嫌った。無論、当事者になることなど以ての外だ。
ラグエルは、素早く辺りを見回した。この場に目撃者がいないようなら、自分の一日の始まりを台無しにした天使共を殺して、逆に最高の気分で一日を過ごせるかもしれない。
だが、上空に目を遣ると、既に何人もの天使達が飛んでいるのが目に付いた。
ラグエルは忌々しげ顔を顰め、怒りをこめて強く羽ばたいた。
どんな奴等が彼を不快にさせたのか、振り返って確認してやりたい気もしたが、真っ最中の見苦しい様を目にするのも嫌だと、頑なに背を向けたまま飛び去った。
ああいう、ところ構わず交じり合う天使達こそ、この世界を蝕む病原体だ。自分が階級を上り詰めたら、先ずはああいう病原体達を駆逐する命を下そう。
ラグエルは強く心に誓い、都市の中心に程近い、一際鋭く空を突き刺す高層ビルを目指した。
それは、黒い剣のようだった。
もともとは居住用には作られていないのだろう。半分より上は、ワンフロアまるごと、部屋を仕切る備え付けの壁がなく、外壁は一面ガラス張りだった。ガラスといっても、殆ど不透明に近い黒で、中の様子が透けて見えることは殆どない。ガラス張りの壁の東側には広いバルコニーが張りだし、そこに住む天使の出入り口になっていた。びっしりと蜂の巣のように詰め込まれた他の天使達と違い、そのビルの上階に住む天使達は、ワンフロアを独り占めにしていた。つまり、かなりの上位天使達が住んでいるということだ。
ラグエルは、そのビルと同じくらいの高度から、ほぼ垂直に下降し、ビルの正面玄関前に降り立った。
バルコニーから直接部屋に入れば面倒はないが、自分が訪れる相手は、自分より上の階級。窓ではなく玄関から訪ねるのが礼儀というものだった。
今にも壊れそうに軋んだ音をたてるエレベーターは、日頃殆ど使われていないのだろう。すえた埃っぽい臭いがした。閉じ込められた空気は腐って、チクチクと肌を刺すようだった。ラグエルが二十四階のボタンを押し、その階にゴトゴトとエレベーターが止まるまで、どこの階にも止まる気配はなかった。
エレベーターを降りると、すぐ目の前に黒くて重そうな扉があった。エレベーターホールは円筒形で、扉のある場所だけが平らになっている。
湾曲する壁に張り付いた呼び鈴のボタンは、黒い壁に溶け込んだように見つけにくかったが、ラグエルはあまり時間をかけることなくそれを見つけ、光の円盤に焦がされた褐色の指でボタンを押した。
やがて、眠たげな音をたてて扉が開き、ラグエルは気だるそうな一人の天使に迎え入れられた。
「レリエル様、ご自宅にまでお邪魔して申し訳ございません」
そう言って頭を下げたラグエルを、レリエルと呼ばれた智天使は面倒臭そうに見やり、
「ああ、うん。まぁ……入れば」
投げやりな口調で促して、少しふらつきながら先に立って歩いていった。
「失礼します」
レリエルの二対の羽は、主翼の大きさに比べ、下の副翼が標準よりかなり小さめだった。その少し不恰好な翼を備えた、ほっそりとした背中を眺めながら、ラグエルは格子状の衝立の向こうにある応接間に入っていった。応接間に入ると、レリエルはすぐに、大儀そうに深めのソファに腰を下ろした。
「とりあえず、座れば?」
レリエルが椅子を勧めたが、ラグエルは掌を見せて、それを辞した。
「いえ、大丈夫です」
立ったままのラグエルを見上げ、レリエルはあっさりと頷いた。
「じゃあ、お好きに」
肘掛に肘をついて、レリエルは指先でこめかみを揉み解しながら目を閉じた。
レリエルは、針のようにまっすぐな黒髪を肩の半ばで切り揃え、飾り気のない黒いローヴを身に纏っていた。日に焼けた黒い肌ばかりの天上の天使達の中では、比較的色の白い方だろう。少し目尻の下がった顔立ちは優しげで、ゆったりと喋る口調は、穏やかそうな印象を受ける。穏やかというのはそうかもしれない。レリエルは、怒ったり激しい感情の昂ぶりを見せたりすることがなかった。だが、優しいのではなく無関心なのだと、ラグエルはザファイリエルから聞いていた。目の前で誰がどうなろうと、どうでもいいのだ。あるいは自分自身についてさえも。
目を閉じてそのまま眠ってしまいそうなレリエルに、ラグエルは相手に促されるのを待っていたら埒が明かないと、自分から口を開いた。
「レリエル様、例の下天についてですが……」
ザファイリエルに命じられ、地上に下りることを承知したレリエルは、既に共に下天するメンバーを選別し終え、その者達は一足先に地上に下りていた。彼らは、地上の情勢を探りながら、拠点となる場所を見つけだしており、後はレリエルの下天を待つばかりの状態だった。
そしてラグエルは、レリエルがいつ下るのかを確認しにきたのだ。本来は、レリエルが自ら報告に訪れるはずだったのだが、なかなか現れる様子がなく、ザファイリエルに命じられてラグエルが足を運ぶことになった。
レリエルは薄く目を開き、
「ああ、うん」
と呟いて、また目を閉じた。
「いつ頃の下天になるのかと、ザファイリエル様が気にかけておられまして」
「……早く出てけって?」
目を閉じたまま、レリエルが囁くように尋ねる。ラグエルは、慌ててかぶりを振った。
「いえ、そういうわけでは。ただ、既に地上の準備は整っているようですし、下天の際にはお見送りをしなければと」
「見送り? ああ、そんなのはいいよ」
「そういうわけには……」
「最後に晒し者になれって? 下天の恥だけで充分でしょう」
ふと目を開けて、ラグエルを見やったレリエルは、自分ではそう言いながらも、本当はそれすらもどうでもよさそうだった。ラグエルがなんとか言い繕おうと試みる前に、レリエルはだるそうに手を振って、それを制した。
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