多良太が頷くのを見て、サフィリエルは更に続けた。
「あれは、外の様子を映しているんだ。あの窓に映っている雲、ここはその雲の上にある。そして雲の下にはもう一つ、こことは異なる世界があって、異なる生物が住んでいる。本来、天使達が雲の下に下りていくことは稀なことだったんだが……」
「どうして?」
多良太の問いに、サフィリエルは、苦い笑いを口元に浮かべた。
「天使達は、自分達と異なる姿を持つ者達に近付くことを嫌っていたんだ。今も、できることなら側に寄りたくはないんだろう。だが、時が経つにつれて、そう言ってもいられなくなった。この雲の上の世界で、天使達はあまりにも増えすぎてしまったから」
多良太が再び「どうして?」と繰り返し、リフェールもちょっと興味をひかれた顔で尋ねた。
「それ、あたしもよく知らないの。どうしてそんなに増えてしまったの?」
「ここには、天使達を傷つけるものはなにもない。死ぬ者は殆どいないのに、次々と新たな天使が生まれたなら、いつかこうなるのは避けられなかったということは、わかるだろう? だが、天使達がそれに気付いた時には、少し遅すぎたんだ。もう、天使達は取り返しのつかないほどに数を増し、雲の上を埋め尽くす高層ビルの中に、隙間なくびっしりと詰め込んでもまだ、住む所のない天使達が多くいた。その天使達が、住む場所を求め地上に下りていっても、地上に住む生き物のなによりも長い時を生きる天使達は、そう簡単に減りはしないし、そのくせ、卵は産み続ける。だが、限界は誰の目にも明らかだった。それなら、減らすことができないのならせめて、これ以上増えないようにするしかなかった。いくら天使でも永遠ではないから、その数が僅かずつでも減っていくのを待つことしかできなかった。それまでは、新たな天使の誕生を中止すると、そうすることしかできなかったんだ。だから、いつくるともしれない人口減少の時まで、この天上の都市を統べる評議会は、全ての卵を凍らせることに決めた。リフェールが卵から孵ったばかりの高速成長期中の天使を見たことがないのは、そんな理由だ」
「でも、ぼくは生まれたよ?」
「それは……」
サフィリエルは、あどけない表情で、今の話と矛盾する自分の存在を問う多良太に、一瞬言い淀んだものの、すぐに、多良太に力強く頷きかけて言った。
「ああ、そうだ。本当なら、お前は今も他の卵達と同じように眠っていたはず。だが、お前は自分で、今、この時に生まれることを選んだんだろう。本来、卵が眠り続ける冷たさよりも、生まれようとするお前の意志の方が強かったんだろうな。凍りついた卵を溶かして、お前が私達を呼んだから、お前を孵すことにしたんだ」
「あたしが最初に見つけたの。多良太の卵にヒビが入ってるのをあたしが見つけてね、サフィリエルに教えたの」
自慢げに主張するリフェールを微笑ましく見やり、サフィリエルがそれに頷く。多良太は、二人に交互に視線を漂わせ、
「……でも、あの……ねぇ?」
「なんだ?」
「ホントは、生まれちゃ……いけなかったん、でしょ? ぼくが、こうして生まれてしまったこと、内緒のこと、なんでしょ?」
とぎれとぎれ、サフィリエルの顔色を窺いながら聞いた。
「多良太?」
「ごめんなさい。でも、ぼくを勝手に、よくわかんないけど、評議会とかいうのに内緒で孵してしまったこと、後悔してる?」
言葉にしなかったものを含んだ問いに、多良太は少し言いにくそうだった。気をつけると約束したばかりなのに、と、自分でも心苦しく思うのだろう。それでも、最後まで言うと、多良太は期待と不安のないまぜになった瞳で、サフィリエルの青灰色の瞳とリフェールの黒い瞳を交互に見つめた。
サフィリエルは、多良太をじっと見つめ返し、多良太に尋ねた。
「今の私の声は、聞こえないのか?」
「あのね、ずっと聞こえるわけじゃないんだよ。時々ね、光が瞬くみたいに聞こえるだけなんだ」
「それで?」
「……聞こえた、けど」
そんな気持ちは言葉にして欲しい。サフィリエルはテレパスではなかったが、それでも、多良太がなにを求めているのかはわかった。
澄んだ音をたてる硝子のような多良太のブルーの瞳を覗きこみ、サフィリエルは目を細めた。
「後悔は、していないよ」
「するわけないわ。自分でそれを望んだんだもの」
リフェールもまた、きっぱりと答え、多良太は、ため息をつくように笑った。
「ありがとう、ホントだね。それならぼく、このまま生きてもいいんだね」
「決まってるじゃない!」
「当たり前だろう?」
微笑んで答えながらも、サフィリエルは少し胸が痛かった。理由もなく泣きだしたいような、そんな気分だ。多良太が心を読むのなら、この、自分ではよくわからない気持ちの理由も、読み取ることができるのだろうか。
そんなことを考えながら、辿り着いた小さな小部屋の扉を押し開く。
唯一つの窓は、偽りの窓でしかなかったが、そこを流れる白い雲は、今この時、確かに存在している。
上空には、刷毛で梳いたような白く薄い筋雲。下層には丸みのある雲の塊が波状に並んだ白い層積雲。
その雲の上にある黒い都市。都市の色に染まったのか、彼ら自身の色が都市を染めたのか。黒い天使の住む都市の中で、サフィリエルの閉じ込められた、この場所ばかりが白かった。
サフィリエルは、世界にわずかに残った白さを全て掻き集めたかのようなこの場所で、失ったはずの光が集まって形になったのが、多良太なのかもしれない、と思った。
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