「ごめんなさい」
目を伏せる多良太に、サフィリエルは微笑んだ。
「いいんだ。すぐに直せるものじゃない」
「うん、気をつけるね」
大きく頷くその様子に目を細め、
「それじゃ、リフェールも来たから、少し休憩にしようか」
サフィリエルはおだやかに二人を促した。
「うん」
「そうしよっ」
待ってましたとばかりに、二人は同時に頷いた。眠り続ける卵の海よりも、サフィリエルの、今はサフィリエルと多良太の暮らす、小さなその部屋が好きだった。白い卵に埋め尽くされた集積場は、閉じ込められた無数の命の重さに、息が苦しくなるから。
「じゃあ行こう」
サフィリエルの長衣を握りしめたまま、多良太が後を追い、リフェールも多良太の反対側で、サフィリエルの右腕をそっとつかんだ。 身体の両脇にかかる心地好い重み。サフィリエルは、胸の内に広がる幸福感に、思わず微笑んでいた。
(ここは、逃れられない永遠の牢獄だが、私にとって、リフェールと多良太がいるのなら、至上の楽園と同じだ。だが、この至福の刑罰の後には、おそらく、最も重い罰が待っているのだろう)
サフィリエルにとって、なによりも重い罰は、この小さな天使達を奪われてしまうことだ。そんなことをふと思い浮かべるだけで、不安と絶望に心臓が痛くなる。想像だけで、こんなにも苦しいのに、それが現実のものになったなら、死んでしまうかもしれない。狂ってしまうかもしれない。
いや、むしろ実際にそうなったなら、死んでしまう方が、狂ってしまえる方がはるかにマシに違いない。なにより怖いのは、正気を失わずに彼等を求め続けることだ。決して叶えられることのない切望に、苛まれることだ。
幸福の代償は、それを失うことへの絶え間ない不安と恐怖なのかもしれない。
そんなことを考えて、相貌から微笑みを消したサフィリエルに、リフェールが歌うように言った。
「だけど、ねぇ。すごいよね」
「なにが?」
サフィリエルを挟んで反対側で多良太が首を傾げ、その曖昧で唐突な言葉の意味を尋ねる。リフェールはふふっと笑い、
「たった半日見ないだけで、こんなに大きくなってるんだもの」
多良太に向かって、嬉しそうに目を細めた。
リフェールはこのところ、すごく元気で楽しそうだった。出会った最初の頃はいつも傷だらけで、訪れる度に、先ずは怪我の手当てをするのが決まりのようになっていたのに、多良太が生まれてすぐの頃から、そんなこともなくなった。
彼女が怪我をする原因だった女天使と、別れて住めるようになったのだと、リフェールは嬉しそうにサフィリエルに報告していた。でも、それよりも今は一人で暮らしているから、ここに、自分の好きな時に好きなだけ遊びに来られることの方が、嬉しいのだと言った。
サフィリエルは、リフェールがその小さな体に痛々しい傷を負わずにすむようになって、本当に良かったと思った。痛みに顔を顰める様を見ずにすむようになって、心から安堵していた。
リフェールが本来あるべき滑らかな肌を取り戻し(背中の傷跡だけはどうしても消えないようだったが)、ニコニコと笑う姿を見るのは、サフィリエルにとっても喜びだった。
サフィリエルは、嬉しそうなリフェールに、自分も同じくらい嬉しそうに微笑んだ。
「リフェールだってそうだったろう?」
「そうだったんでしょ?」
サフィリエルの口調を真似して、多良太が首を傾げる。 リフェールはサフィリエルの腕から手を離し、クルリと回転しながら、二人の前に回り込んだ。後ろ手に手を組み、小首を傾げる。
「そうかもしれないけど、自分のことってよくわからないもの。一日毎に目の高さが変わってくのはわかってたけど、鏡で自分の姿を見てたりしてたわけじゃないもの。それに、あたしが最後のグループだったんでしょ?」
「ああ、そうだったな」
「でしょ? だからあたし、こんなふうに客観的に、高速成長期の子を見るのは初めてなの。なんかすごいよね、瞬く間に大きくなるって感じ」
「それ、ぼくのこと?」
多良太が戸惑いがちに首を傾げ、リフェールは微笑みながら頷いた。
「そうよ」
「ふうん? でも、ねぇ……どうして? どうしてみんな凍らせてあるの? リフェールが全然見てないって、いつもリフェールが帰ってくとこには、他に誰もいないわけじゃないんでしょ?」
「誰もいないどころか、腐るほどいるわ」
「じゃあ、どうして? それだけいるなら、卵から孵ったばっかりの子だって、沢山いるんじゃないの? 最後のグループってなぁに? それが関係あるの?」
「だからそれは……ん~と、ねぇサフィリエル。サフィリエルが説明してくれない?」
うまい説明の言葉を見つけられずに、リフェールはサフィリエルに救いの手を求めた。サフィリエルは頷き、少し考え込んでから口を開いた。
「外の世界は……天使達で溢れ返っている。行き場を無くした者達が、下界に降りて行かざるを得ないほどに」
「げかい?」
耳慣れない言葉に、小声で聞き返した多良太に目をやり、サフィリエルはわずかに顎を引いて頷いた。
「部屋の中に、窓が一つあったのを覚えてるか?」
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