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「サフィリエール」
遠く、サフィリエルを呼ぶのはリフェール。卵の列を飛び越えて走ってくるリフェールを、声よりも先に、その姿で見つけた。
「サフィリエル、ねぇ、サフィリエル」
息せき切ってサフィリエルの元に駆けてきたリフェールの頬は、少し上気して、漆黒の瞳が心配そうにゆらいでいた。その様子に、サフィリエルは気遣わしげに、続く言葉を促した。
「どうしたんだ?」
「サフィリエル、ねぇ多良太は? 部屋にいないの、どこ行っちゃったの?」
「ああ、それなら」
ホッとしたように笑ったサフィリエルの言葉を、澄んだ子供の声が引き取った。高く響く、ガラス細工の螺旋。
「ぼく、ここだよ」
そう言って、サフィリエルの白い長衣の影から現れたのは、小柄なリフェールよりもずっと小さな男の子だった。身長も、サフィリエルの腰の位置にも満たない。年の頃は五・六歳ほどか。だが実際には、少年が殻を破って生まれてきてから、まだ数日しか経っていなかった。それしか経ってはいなかったが、天使に特有の性質によるのか、既にここまで成長を遂げていた。
天使は、生まれてから、十二、三歳ほどに見えるまで急激に成長し、突如その成長速度を緩める。そして、ひどくゆっくりと成長していく。それは、全ての天使に共通の性質であり、この子が天使なら、今これほどに大きくなっていることも不思議ではなかった。
だが、少年の姿は、一般的な天使とはかけ離れていた。
金色のやわらかそうな髪。白く華奢な背中に翼はない。あるのは、えりあしの髪と繋がる、背骨沿って流れる金色のたてがみだった。砕けてしまいそうな、澄んだブルーアイ。大きな目。驚くほど睫が長い。
背中を大きくあけるようにして白い衣をまとい、細い腰紐をゆるく結んでいる。サフィリエルの予備の服を、リフェールと二人で、多良太に合うように作り変えたものだ。既に三着目のそれは、作って着せた時は、足首まで覆い隠す長さだったが、今は、膝頭がちょうど顔をだすくらいになっている。さすがに、靴までは用意できなかったため、多良太は裸足だった。袖がないので、両腕はむきだしで、そのほっそりした白い手で、サフィリエルのマントの裾をしっかりと握りしめていた。
リフェールはそのあまりにも早い成長ぶりに目をしばたたかせたが、すぐに胸に手をあてて笑った。
「なぁんだ、ここにいたのね。よかった、どっかいっちゃったのかと思った」
金色の子供が微笑む。やわらかい光が、その周りに広がるような気がした。
「いなくなったりしないよ」
「外は駄目よ?」
多良太と名づけられたこの少年が生まれてから、リフェールは少し、大人じみた物言いをするようになった。サフィリエルは、それが微笑ましくて、つい顔が綻びそうになるのを、いつも必死で堪えていた。
「うん、わかってる」
「ホントに駄目よ?」
「リフェールもサフィリエルも心配症だぁ」
多良太がとろけるように笑う。サフィリエルは怪訝そうに口を挟んだ。
「私はなにも言っていないよ?」
多良太はきょとん、と首を傾げる。
「でも思ったよ?」
「思ったって?」
繰り返し、はた、と多良太のその言葉の意味に思い当たり、サフィリエルがわずかに眉根をよせた。不快な表情ではなく、困惑しているようだった。
「また、心を、読んだのか?」
「だって、聞こえてきちゃうんだもん。耳を塞いでたって聞こえちゃうんだもん」
愛らしく唇をとがらせて、多良太は上目遣いにサフィリエルを見た。
「わざとじゃないのはわかる。だが、心を読んだことは言わない方がいい。聞こえてしまったことを、悟られないようにするんだ」
「どうして?」
それは相手を不安させる。誰もが人に知られていいことばかり考えてるわけじゃない。
それに、自分やリフェールはそんなふうに思いはしないが、もし万が一、二人以外の者にこのことがバレたら、気味悪がられてしまうかもしれない。その想いを知って傷付くのは、多良太自身だろう。
だからだと、そんなことを多良太にわかりやすい言葉で伝えようとした時、それより先に、多良太はコクンと頷いた。
「わかった、気をつける」
サフィリエルはなにも言わなかった。言わなかったが、多良太は小声で「あっ」と言って、慌てて小さな両手で口を塞いだ。また、言葉にする前に聞いてしまったことに気付いて。
多良太は、翼の代わりに、金色のたてがみと他人の心を読む能力を持って生まれてきた。夜の闇の代わりに、光をまとって生まれてきた。
昔、もう随分と昔、天使達の翼は白かったという。きらめく朝日のような髪の色だったという。
今は、そんな天使はいない。闇色の翼と髪と瞳。それこそが真の天使の姿。サフィリエルのような黒みの薄い者や背中に翼を持たない者は、出来損ないだと、そう言われる。
多良太に翼はない。白い翼も黒い翼も、その間の中途半端な色の翼さえもない。あるのは金のたてがみ。けれど、その金色とブルーは、忘れられた天使の色だった。
サフィリエルとリフェールは、天使らしさとはかけ離れて見えるこの少年を、それでも天使と呼ぶことにした。それ以外に、呼び名を思いつかなかった。
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