黒い都市の中心に、その巨大な大聖堂はあった。
十二本の、鋭い棘のような尖塔が薄青い空を突き刺し、一際大きく高い塔の先端には、漆黒の十字架が掲げられている。大聖堂の中には、天空の都市を統べる評議員達が暮らしていた。
主天使のラグエルは、評議員ではなかったが、評議員の一員である熾天使ザファイリエルの補佐として、毎日その大聖堂に通っていた。
大聖堂の正面には、精緻な装飾が施された巨大な両開きの扉があったが、その扉が開かれることは殆どなかった。大抵は、その横にある、一人か二人が通るのがやっとの、小さな通用門が使われた。
ラグエルは、いつものように、顔なじみの門番の天使に軽く会釈すると、通用門から黒い夜の塊のような大聖堂に入っていった。
中に入ると、両脇の壁に彫刻が飾られた通路が三十メートルほど続き、その先にある扉を抜けると、天井が高いふき抜きになったホールにでる。そこから東の扉をくぐり、階段を二階分昇って突き当たりから二番目。そこが目的の場所だった。
ラグエルは、その部屋に辿り着くまでの間、出会った全ての天使を殺す場面を想像しながら歩いた。それが、ラグエルの日課だった。
そして最後に夢想するのは、彼が向かう先にいる上級第一の天使、闇そのもののようなその天使の死に際。その殺し方はいつも同じというわけではなかったが、必ず想像するシーンが一つあった。それは、その天使の背中にある三対の翼。漆黒の粒子を散らす上級天使の証。その羽を毟り取るその瞬間だ。
あの、ご自慢の六枚羽を引き毟って、偉そうな澄まし顔が恐怖と苦痛に歪むのを見るのは、どんなにか気持ちいいだろう。ズタズタに少しずつ切り裂くのもいいけれど、雲の端から薄汚れた地上に突き落とすのも楽しそうだ。
そんなことを考えながらラグエルが部屋に入ると、既にザファイリエルは、最奥の執務席に座り、ラグエルからの報告を待ち受けていた。黒くなめらかで光沢のある床材と、光沢を消し、少しザラついた壁と天井、全て黒の内装、調度品の作り出す陰の中で、その最高位の上級天使の姿は、もっとも暗い色をしていた。
「遅くなりまして、申し訳ございません」
本当はいつもと同じ、定められた時刻に一秒たりとも遅れたわけではないが、ラグエルは待ち構えていた相手への礼儀として、そう口にした。
「構わん。今日の報告を聞こうか」
ザファイリエルがぞんざいに促すのもいつも通り。ラグエルが「はい」と答えて、手にしたクリップボードに目を落とし、ザファイリエルへの報告をするのも同じだった。
「地上の支配権統一についてですが、特に進展した様子はありません。唯一組織的なのは、相変わらず「狩人」と称する一団と狩りに携わる関係者のみのようで、それ以外の者を特定、選別、支配する作業は、まったくといっていいほど進んでいないようです」
暫く前から繰り返されている同じ内容に、ザファイリエルは初めて、今までとは異なる反応を見せた。
「例の報告を持ってきた、あの座天使の……」
「アルシェレイムですか」
ザファイリエルがいつもと違うセリフを口にしたことに少し驚きながらも、咄嗟にでてこなかった名前を告げたラグエルに、ザファイリエルは軽く頷いて続けた。
「そいつだ。仮にも上級三位、奴がまとめることができるのならそれでもいいと思っていたが、今の報告を聞くと、どうも難しいようだな」
「はい。やはり当初の予定通り、何名か下天させますか?」
天上では、地上に下りることを下天、下りた天使を下天使と呼ぶ。地上に生まれた天使のことは、地天使と言っていた。地上の天使達は自分達のことをそうは呼ばないし、上にいる天使を上天使とも呼びはしなかったが。
「そうだな。能天使と権天使数名、智天使一名もいれば事足りるだろう」
「ですが、下天を智天使が承服するでしょうか?」
「ま、普通は嫌がるだろうな。奴ら、たかが四枚の羽でも、地上に下りて失くしたくないと言うだろうしな」
侮蔑を含んだ口調で吐き捨てた彼の背には、六枚もの羽が備わっている。だが、そう言われたラグエルの背中には、通常の二枚羽しかない。
ラグエルは、わずかに不愉快そうに頬を歪め、すぐにその表情を消した。ザファイリエルは、ラグエルが慌てて消した表情に気づくと、どこか面白がるような様子を、宇宙の闇のような瞳に浮かべた。
そして、ふと思いついたかのように言った。
「そういえば、あの羽無しの子供、元は四枚羽だったらしいぞ。奴らのお仲間になれたのにな」
可哀想に、と言ったザファイリエルが、本当は哀れんでなどいないことは、誰の目にも明らかだった。
ラグエルは、ザファイリエルの情報に、ちょっと目を瞠った。この上級天使は、時々驚くべき情報を握っている。その情報をどこから得ているのか、尋ねても教えてくれないことの方が多かったが、今回は違ったようだ。
「本当ですか? どこでそんなことを?」
「あの子供と住んでいる女天使と今付き合っているのが、レリエルの部下でな。背中に四つの傷跡があったそうだ」
レリエルは、ザファイリエルと長い知り合いの智天使だった。以前はかなり親しい間柄だったという噂もあるが、今は付かず離れずといった関係のようだ。
「見たんですか?」
「あったと言ったからには見たんだろうさ。まぁそんなことはどうでもいい。それより、そいつがその女天使にそろそろ飽きてきたらしい。 ……今度こそ、殺してしまうかもしれんな」
「今殺されては、マズイのでは?」
「そうだな、折角順調にいっているようだしな」
「では?」
「切り離した方がいいかもしれないな。もう、一人でも十分だろう」
「ですが、空室など……」
「なければ作ればいい。簡単なことだ。そうだろう?」
天使で溢れかえったこの世界。空きがないのなら、誰か殺すなり下ろすなりして空きを作れと言うのだ。ラグエルは、生贄の誰かを殺す瞬間を想像して、興奮に身震いしたが、先ほどの指示を思い出し、地上での支配権を確立するために下天させられる天使の空きを使えば、十分間に合うことに思い当たった。残念だが、生贄を手にかける楽しみは、得られそうにない。
「わかりました」
ため息を押し殺して頭を下げたラグエルは、ザファイリエルの次のセリフに、ハッとしたように顔を上げた。
「レリエルが下りる」
「地上にですか?」
「無論、そうだ。あいつに地上の覇権をくれてやる。これで、智天使が下りるかどうかという問題は解決だな。誰を連れて行くかは、あいつに決めさせればいい」
「レリエル様はそれを?」
「承知済みだ。手回しのいい上司で助かるだろう?」
冗談めかして薄く笑い、ザファイリエルは目を細めた。ラグエルはなんと言っていいかわからず、ただ、「は」と応えて、深々と頭を下げた。
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