進化の卵  
1章「卵海(らんかい)の天使」
 
 
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1-13


 リフェールは泣いていた。
 自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝って流れて落ちていた。
 サフィリエルもやっぱり、泣きだしたいような気持ちだった。
 それは、新しい命の誕生に感動して、とか、ただそんなことだけではないような気がした。それならなぜ? と尋ねられたとしても、サフィリエルにもリフェールにも、答えることはできそうになかった。
 わからない。胸を締め付けるこの想いに付ける名前がわからない。
 外気に触れたばかりの青い瞳は、なにも映していないのだろう。光さえも、まだ見つけられないのかもしれない。今泣いているのは、狭くあたたかな卵の中から、あまりにも広く冷たい世界に放り出された不安からかもしれないと思った。
 サフィリエルは、金色のその子に手を伸ばし、両手の平でそっと抱え上げた。二つの手の平の中に収まるほど小さいその子は、目はまだ見えなくても、身体に触れる感触はわかるのだろう。音も聞こえているようだ。
「大丈夫だ、おいで」
 静かにやさしく囁くサフィリエルの声に、一瞬、じっと耳をそばだてるような様子を見せて、泣き声が少し小さくなる。
 リフェールはまだ目を潤ませながら、テーブルの上で一番清潔そうな白い布を手に取り、サフィリエルの手の中で泣くその子の体をそっと拭いてやった。ついでに、自分の濡れた頬も拭う。
 濡れた髪や産毛が、リフェールに拭いてもらって乾いていくと、濡れている時よりも明るくキラキラと輝きだした。特に、背骨に沿って生えたたてがみは、風にそよいで、金色の粒子が大気に散るようだった。
「すごく……キレイね」
「そうだな」
 ため息をつくようにリフェールが囁き、サフィリエルも心から同意した。
 こんな美しい生き物は今まで見たことがない。それが天使か天使じゃないかなんて、どうだっていいような気さえした。
 体はすっかり乾いて、金色のその子はようやく泣き止んでいた。ひとまず、生まれてくる前に準備しておいた、やわらかい布を重ねて作ったベッドの上に寝かせようと、サフィリエルがそっと手の上から下ろそうした途端、その子がまた泣きだした。サフィリエルの手のぬくもりから離されたくないと、その泣き声は言っているようだった。
 サフィリエルはおろしかけた手を戻し、
「大丈夫だ」
 と、囁いた。すると、途端に泣き止み、サフィリエルとリフェールは、思わず笑みを交わした。
「よっぽど、サフィリエルの手の中が居心地いいのね」
 そう言われて悪い気はしなかったが、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。だが、もうこれ以上は無理だという限界がくるまで、このまま手の中にぬくもりを感じていたかった。
「ね、ちょっとだけ、代わってもいい?」
 リフェールが、首を傾げてサフィリエルを見上げる。サフィリエルは、手放したくない気持ちを抑えて、リフェールに頷いた。
「もちろん。持てるか?」
 サフィリエルに比べて、リフェールの手はずっと小さい。両手で作るゆりかごに収めるのは難しそうだ。
「大丈夫よ、気をつけるから」
 そう言ったリフェールの小さな両手に、サフィリエルはそっと手の中のぬくもりを移した。
 光でできたかのような小さなその子は、サフィリエルの手から離れる時、不安そうにちょっと泣いたが、リフェールの手の上に乗せられると、そこが自分には少し窮屈な場所であるにも関わらず、サフィリエルの手の中と同じように、安心したように泣き止んだ。
「あったかいのね。かわいい……」
 リフェールが目を細めて微笑む。サフィリエルは、近くの椅子を引いて、リフェールに座るように促した。
「座っていた方が疲れない」
「うん、ありがとう」
 リフェールは素直に腰をおろし、その子が手を握ったり開いたり、ぱくぱくと口を動かしたり、もぞもぞと足を動かしたりするのを微笑んだまま見つめていた。
 やがて、長い睫に縁取られた目が瞬きを繰り返し、眠たげな様子を見せた。
「眠くなったのかな」
「そうだな。生まれたばかりの頃は、殆ど眠っているらしいからな」
「そうなの? そっか。じゃあ、いいよ、眠って。大丈夫よ、あたしとサフィリエルがいるからね」
 囁きかけたリフェールの言葉を理解したかのように、その子は目を閉じ、すぐに眠りに落ちたようだ。手にかかる体重が、少し重たくなったのを感じた。規則正しい静かな呼吸とおだやかな寝顔に、サフィリエルとリフェールは微笑みを深める。
 生まれるはずのなかった命。
 生まれてはいけないと、世界が叫んでも、生まれたいと願った命。
 その命の輝きは、眠っていても尚、きらめく光で隔離された小さな部屋の中を照らした。
 その光は、空で黒い都市を焦がす白い円盤の光と違い、なにものも傷つけることなく、優しくあたたかかった。
 この光に包まれてさえいれば、どんな痛みも全て癒してくれるような気がした。
 病んだこの世界までも、癒してくれる気がした。




   
         
 
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