進化の卵  
1章「卵海(らんかい)の天使」
 
 
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「まだ孵ってない。だが、見てごらん。昨日よりずっとヒビが広がっている」
「ホント!?」
 一筋だったヒビは分かれ、幾筋かの亀裂になって、頭頂部だけでなく、側面にも小さな穴のようなヒビが入っていた。卵はぼんやりと光り、内側からの輝きが染みだしてきているかのようだった。孵化が近いことは、今まで一度も孵化に立ち会ったことのない、サフィリエルにもリフェールにもわかった。
 卵が孵る瞬間は、絶対にここで一緒に見ていたいとリフェールは言った。
「今日は孵るまで、ここにいちゃいけない?」
 そう言われて、サフィリエルは少し考え込んだ。
 一緒に卵の孵る瞬間を迎えたいのは、サフィリエルも当然同じ気持ちだ。だが、そんなに長くここにいて、もしリフェールと暮らす女天使がリフェールの行方を探したら。そしてリフェールの居場所を突き止められてしまったら。 もう二度と、リフェールがここに来られなくなってしまうかもしれない。
「やっぱり、一日に一度は帰った方がいいと思う」
 気遣わしげにサフィリエルが言った。
「帰らなかったら、さすがに、どこに行ったか探そうとするんじゃないか?」
 リフェールは大人びた仕草で肩を竦めた。
「そうかな。あたしはそうは思わないけど」
「だが……」
「あたしが帰らなかったからって、あの女は喜びこそすれ、わざわざ探そうとなんてしないわ。今の相手にフラれて、あたしに当たろうっていうんじゃないならね」
 自分を産んで、そして羽を奪った女天使のことを話題にする時、リフェールはその声音にあまり感情を乗せようとしなかった。ぞんざいに、吐き捨てるように、どうでもいいことのように話す。その表情もそうだ。作られた無表情さ。だが、その裏に秘められた怒りや悲しみ、やり切れなさが目に見えるようで、サフィリエルは胸が痛かった。できるだけ、リフェールのその傷に触れずにいたかったが、避けて通れない時もある。例えば、今のように。
「その万が一が、心配なんだ」
「サフィリエルは心配性ね」
 リフェールは、強張った表情をゆるめ、少し、笑った。
「サフィリエルは、いつもなにかを心配してるのよね」
「……そう、かもしれないな」
 困ったように同意するサフィリエルを見つめたリフェールは、また少し笑った。

 その時だった。
 音が、聞こえた。
 ピシ、パシ、と甲虫の交わす言葉のような音。
 ハッとして、サフィリエルとリフェールは同時に卵に目をやった。
 卵の殻に無数の亀裂が走っていた。とても細かい、網の目のような亀裂だ。亀裂からは光。金色の光が透けて見える。
 そして突然に、卵の殻はその頂からパラパラと崩れ始めた。
 パラパラと雨のように、サラサラと砂のように、崩れた後に残ったのは、環状の欠片。そしてその輪の中心に、金色の。金色の。
 それは光。
 サフィリエルとリフェールは我知らず息を止め、まばたきも忘れてただ見つめていた。
 そして、小さな生まれたての命が、その体の大きさには不釣合いなほどに大きな産声をあげた。
 自分は今、生まれたのだと、世界中に主張するかのように。
 その声は、螺旋を描いて宇宙へと上る。
 サフィリエルとリフェールは、その声にようやく我に返った。
 だが、それでもやっぱり、今自分の目で見ているものが信じられなかった。これは、一体誰の夢だろうか。
「天使、なの?」
 リフェールの囁く声は、独り言に近かった。答えたサフィリエルの声もまた。
「天使以外の卵が、紛れこんでいたというのではないのなら。だが、わからない」
 自分には、そのどちらが正解なのか、とても判断できそうになかった。
 卵は、他のどの卵ともなんら変わることはなかった。冷凍状態でヒビが入ったということを除けば、外観は完全に天使の卵だった。そのヒビの入り方、孵り方も、天使のそれと同じだった。崩れた後に残る白い環状の欠片の山も、なにも変わらない。
 それなのに、その中から現れたのは、およそ天使とはかけ離れた姿をしていた。

 体全体を覆うのは、驚くほど細く薄い金色の産毛。透明な膜の中で、濡れて体に張り付いている。光そのものの金の髪が既に数センチ伸びて頭部を覆っていた。その髪は、えりあしだけが、なぜか長い。背骨に沿うように腰まで伸びている。違う。髪の毛ではない。それは直接皮膚から生えていた。それはたてがみだった。
 天使の証であるはずの、闇のような黒はどこにもなく、翼が生えるための膨らみもその背にはない。瞳の色はわからない。生まれたばかりのその命は、両手足をつっぱるように広げ、目を閉じたまま、自分の存在を主張するかのように泣いていた。
 その手足の動きで、透明な薄い膜が破けた。粘液質の羊水が流れだして、環状の欠片の山を崩し、粉のように細かい欠片が、その流れと交じり合って命の模様を描く。
 体にまとっていた薄い膜のすべてを剥ぎとった時、初めて瞼が開いた。
 開かれた瞼の奥に宿っていたのは、胸が痛くなるような青い瞳だった。




   
         
 
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