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リフェールはいつも、苦痛に満ちた家からサフィリエルのいる集積場までの道を、影を選んで歩いた。
ビルとビルの隙間。細い路地裏。はるか彼方、細められた目のような狭い空の下なら、空を飛ぶ天使達に見つかることは殆どない。時には、狭い路地裏に面した窓から空へとすり抜けていく天使がいたけれど、黒い道をひっそりと歩く黒に身を包んだ彼女に気づくことはなかった。
今もまた、ビルの中ほどから黒い天使がすべりだし、狭い空間で器用に翼を羽ばたかせながら、細長い空の隙間へと昇っていった。その羽音が、路地裏に反響し、リフェールは思わず上を見上げた。
黒い天使は、あっという間に間隙に吸い込まれ、そして見えなくなった。
羽ばたきの音と、その姿に、背中の傷跡がまた少し痛んだ。
リフェールはちょっと顔をしかめ、いつまでも痛む自分の背中を思って、ため息をついた。サフィリエルと出会ってからは随分とマシになったけれど、それでもこの痛みは、この先もずっと消えることはないような気がした。
(こんなに痛いのに、なんであたしは死のうと思わないのかな。あの女にどれだけ痛めつけられても、死のうとは思わなかったのは、なんでなのかなぁ)
ふとそんなことを思ったリフェールの脳裏に、サフィリエルの面影が過ぎる。
(サフィリエルがいるから? 今はそう。でも、サフィリエルに会う前だって、生きていたっていいことなんてなんにもない、苦しみが長くなるだけだって思っても、生きていたかった。 空を飛んでみたかった。そんな願いのためだけ? ただそれだけ? 飛んでいたら、一度でも飛んでいたら、あたしは生きるのをやめていた? わからないけど、きっと違うと思う。じゃあ、どうして?)
『約束したから……』
唐突に浮かんだ言葉に、リフェールは困惑した。
(約束? 約束ってなに? 誰と? いつ? そんなの憶えてない。そんなのきっと、ただの気のせい。だけど。だけど)
リフェールは、憶えのない「約束」という言葉が、自分を生に結び付けているのだと感じた。どれだけ傷ついても、痛くても、それでも死のうとしないのは、やっぱり。
約束、したから。
そんなことをとりとめもなく思っていたら、道を一つ間違えていた。
気づいたらリフェールは、無数の天使が飛び交う真下の道を、一人歩いていた。
ハッと上空を振り仰ぎ、その黒い天使達の数の多さに一気に体中から血の気が引いた。 これだけの数の天使が群れ飛んでいても、地上に立つ天使はほんの数えるほど。しかも、地上にいても天使達の背中には、誇らしげに黒い翼があった。
(いけない……!)
こんな場所で、羽のない自分を見咎められたら、なにをされるかわかったものじゃない。
一瞬立ち竦んでから、リフェールは踵を返した。間違えて出てきてしまった暗い路地裏に、今すぐ戻らないと。
駆けだしかけたリフェールの目の前を、あの日と同じ黒い闇が塞いだ。
「!」
思わず立ち止まって顔を上げると、刃物のように鋭い目をした長い黒髪の天使と目が合った。その天使の目は、彼方、宇宙の暗黒のように冷たく、深かった。その冷たさに凍りついたリフェールを見下ろして、口元にだけ薄い微笑みをうかべた天使が言った。
「こんなところでなにをしている?」
リフェールは、やっとの思いで、なんとか言葉を絞りだした。
「道を……道を間違えて……」
「こんな広い道を歩いて、誰かに見咎められたらどうする? もっと注意しなければいけないな」
「はい……」
言葉では、リフェールの身の危険を案じているようだったが、それが見せかけでしかないことは、なによりも冷ややかなその双眸が物語っている。リフェールは、自分の心臓の鼓動で、耳鳴りがしそうだった。指先から体中の血が抜け落ちていくような気分だった。
「あまりに不注意なら、あの話は、なかったことにしなければならなくなる。それは困るだろう?」
「はい……」
リフェールは唇を噛み締めて、呟くように答えた。
「では、途中まで送ってやろう」
そう言ってその天使はリフェールに背を向けた。
彼のその背中には、黒々とした三対もの翼があった。それだけで、その天使がかなり高位の天使であることがわかる。
リフェールは、黒い翼の影に隠れるようにして、息を詰めて後に続いた。前を行く天使の暗闇に、飲み込まれてしまいそうな気分だった。
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ヒビの入った卵を見つけた日から、リフェールは毎日、かなり早い時間からやってきていたが、ケースの外に出してから三日目のその日は、昼過ぎになっても現われなかった。なにかあったのかと、サフィリエルが不安でいたたまれなくなった頃、ようやく大きな扉を押し開き、リフェールが姿を見せた。
やって来たリフェールは、少し青ざめていた。
「なにかあったのか?」
「なにも、なにもないわ。ちょっと……ぼんやりしてて、道に迷ったの。心配かけて、ごめんね」
リフェールの口調は、背中の傷を見られたくなくて嘘をついていた時に似ていた。
リフェールは、サフィリエルの顔を一瞬過ぎった痛みと悲しみに、泣きだしそうなのを見られないように、意味もなくキョロキョロと辺りを見回し、自分が今開けた扉の隣にある、サフィリエルの小部屋の扉を先に立って開けにいった。
「ね、卵はどうなったの? あたし、気になっちゃって、昨日はよく眠れなかった。もう孵っちゃってたらどうしようって」
口早に明るく言って、取っ手を掴んで扉を開く。サフィリエルは、今度もまたリフェールの隠し事には気づかなかったフリをして、大丈夫だよと言った。
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