一面の卵海。
果ての見えない卵の海。
数え続ける卵の数は、二万九百九十九。
減った卵の数と同じように、罪の数も減ったのだろうか。それとも、それ以上に増えたのだろうか。
そしてその卵は、小さなヒビを上にして、テーブルの上にシーツや衣服を掻き集めて作ったやわらかい塊の真ん中に乗せられた。
卵がサフィリエルの暮らす小部屋にある、というそれだけで、サフィリエルは、リフェールがいない間の孤独感や空虚さを感じなくなったことに気づいた。
それはまだ、物言わぬ入れ物で、リフェールのようにあれこれ話しかけてはもちろんこなかったが、それでもその中には確かな命があって、触れると少しあたたかく、内に満ちた光が目に見えるようだった。
この中に、一つの命がある。
やがて生まれ、泣き、笑い、話し、色んなことを経験して感じるだろう一つの命。
卵の殻の中で、その命は今なにを感じているのだろう。そこはあたたかいのだろうか。寒いのだろうか。心地よいのだろうか。苦しいのだろうか。
そんなことを思うと、とても不思議な気分になった。自分もこうして卵として産み落とされ、固い殻を打ち破って外界に出て、今ここにいる。卵の中にいた時のことは、当然覚えてはいない。だが、自分にも卵の中にいた時は確かにあったはず。
この小さな卵。
冷凍されて孵ることのないよう保存されていたはずなのに、それでも尚孵りたいと、内側から殻にヒビを入れるほどの強い想い。卵の中に、そんな強い想いが満ちているということがあるのだろうか。忘れているだけで、自分も卵の中でなにかの想いを抱いていたのだろうか。
そして、あの無数の卵達。今もまだ冷凍スリープカプセルの中、彼らもいつか孵る日が来るのを待ち望んでいるのだろうか。
卵に入ったヒビは、外に出した次の日、少し広がっていた。
それを見た時、リフェールは両手を打ち合わせて喜んだ。
「やっぱり! やっぱり外に出たかったのね。中は寒かったのね。これできっと、無事に産まれてくるよね。良かった!」
サフィリエルも安堵し、微笑んだ。
もしかしたら、冷たいまま放置していた期間が長すぎて、卵の中で静かに死んでいたらと、少し危惧していた。出してすぐに、そのぬくもりを手の平で確かめはいたが、孵るだけの力を奪っていたかもしれないと心配だった。
「今日にも孵ると思う?」
喜びと期待に満ちたリフェールの笑顔は、眩しすぎる。サフィリエルは目を細め、ちょっと考え込んでから首を振った。
「今日中は難しいような気がする。明日か、明後日くらいだろうな」
「そっか。だけど、もうすぐだものね。あとちょっとで、会えるのよね」
今日は難しいと言われて肩をおとし、すぐに気を取り直して顔を輝かせる。くるくる変わるリフェールの表情に、サフィリエルは我知らず微笑んでいた。
「あたしね、サフィリエル」
今度は少し恥ずかしそうに、リフェールが言った。自分がこれから言うことで笑われるかもしれない、呆れられるかもしれない、そんな心配を隠そうとしているように見えた。
「夢を見たの」
夢の中には、サフィリエルと自分と、それから小さな卵がいて、小さな卵を肩に乗せたサフィリエルと、きらきらと輝く飛沫を散らす、白い噴水の傍で話をしていた。話の内容はよく憶えていないけれど、話しているのはサフィリエルと自分だけではなく、肩の上の卵も、チラチラと明滅しながら話をしていた。
空はとても青くて、暗い色をした天上の都市はどこにもなくて、緑と青とそれから黄色い風船が並んで空に吸い込まれていった。
サフィリエルは笑っていたし、卵も光を散らして笑っていた。自分もやっぱり心から楽しくて、嬉しくて、声をあげて笑っていた。
そんな夢を見たのだとリフェールは言った。
「きっと、早くこの卵から孵った子と三人でいろんなお話したいって思ってるからね。卵が喋るなんてこと、あるわけないのに、変だよね」
照れたように笑うリフェールに、サフィリエルはその通りだと答えるのを何故か躊躇った。
有り得ない。当たり前だ。
今もテーブルに大切置かれた白い卵は喋りはしないし、彼が数え続ける無数の卵達も喋りだしたりはしない。
だが、それでも、サフィリエルは躊躇い、そして少し困ったように微笑んだ。
リフェールは、自分の言葉を肯定しようとしないサフィリエルをじっと見つめ、それからテーブルの上の卵に視線を移して、独り言のように呟いた。
「変、だよね……」
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