進化の卵  
1章「卵海(らんかい)の天使」
 
 
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 一週間が経った。
 リフェールは毎日欠かさずやってきて、卵が孵りそうな兆候はないか、丹念に観察し、それが最初に見つけた時とまったく変わらないのを見ると、がっかりして肩をおとした。
 この一週間の間、リフェールは一度も手当てを必要とするほどの怪我をしてこなかった。
「最近、別の相手ができたみたい」
 リフェールはどうでもいいように言った。
 暴力を振るわなくなった代わりに、自分のことをいないものとして扱うようにもなったと言った。殴られたりするより、そっちの方がマシだと言った。もともと一緒に遊ぶような子供もいなかったし、一人でいることには慣れているからと。
 だがサフィリエルは、リフェールが実際に暴力を受けていた時と同じくらい、彼女がその女天使に無視されていることにも胸を痛めた。体に受けた傷よりも、心に受けた傷の方が、誰にも見えないし、癒すのも難しいのだと思う。
 その証拠に、暴力を振るわれなくなった今も、時折リフェールの横顔に、苦痛と悲しみがよぎるのを、サフィリエルは見逃さなかった。
 そんなリフェールになにがしてやれるだろう。そう考えた時、今できる最大のことは、彼女の望みである、ヒビの入った白い卵を、無事に孵してやることだろうと思った。
 一週間、今までと同じ冷凍状態にある卵にはなんの変化も見られない。通常なら、ヒビが入ってから二、三日で孵る。よっぽど遅くても一週間。
 サフィリエルは、これ以上このままにしておいても、卵は孵らない、むしろ孵ることができなくなるかもしれないと思った。
 そして、そのことをリフェールに告げ、ケース内の温度をあげてみることを提案しようとした矢先、いつものように卵の前の椅子に陣取ったリフェールが、サフィリエルを振り仰いで言った。
「あたしね、サフィリエル。もう出してあげた方がいいような気がする」
「なぜ?」
「だって、やっぱりこのままじゃ寒いもの。それに、孵ってすぐにケースの中じゃ可哀相だよ」
「そう、かもしれないな。そうしようか」
 サフィリエルは頷き、ケースの操作ボタンを押して、ゆっくりと中の温度をあげていった。
 温度が上がるのを待ちながら、リフェールが夢見るように言った。
「どんな色の羽をしてるのかなぁ。きっと、真っ黒ね。影よりも暗くて、夜よりもキレイな黒。いっぱいに拡げると、そこだけ夜になったみたいになるの。きっとすごくキレイね。あたし、早く見てみたいな。夜のような翼で、空を飛ぶところ」
「そうだな」
 優しく同意したサフィリエルを見やり、リフェールはにっこりと笑った。
「でもね、あたしホントは知ってるの」
「なにを?」
「一番なのはね、サフィリエルの羽。風みたいに繊細で、どんなに強い風にも負けない。サフィリエルの細長い翼が、一番キレイよ」
「言い過ぎだよ、リフェール。私は出来損ないなのに」
 羽の色も薄く、形も奇妙に細長い。本来天使が持つべき翼とは違う。サフィリエルは悲しそうに首を振った。
 だが、リフェールは激しくかぶりを振って、声を高くした。
「違うわ! 出来損ないなんかじゃない! サフィリエルの羽はホントにキレイよ。あたし、外でいっぱい黒い羽の天使達を見るけど、全然キレイなんかじゃない。黒いから、ホントは汚れてるのにわからないだけなのよ。サフィリエルの羽は黒くないから、だからちゃんとホントの色がわかるの。ホントにキレイだってわかるの。あたしは……あたしは、羽もない不具者だけど……」
「リフェール!」
 サフィリエルは思わず息を呑んだ。
「だって、あたしは飛べない。飛べない天使は天使じゃないでしょう?」
 そう言って首を傾げ、サフィリエルの苦痛に満ちた表情に気づいたリフェールは、慌てて首を振った。
「ううん、違うの。サフィリエルが言ってくれたこと、忘れたわけじゃないの。サフィリエルに抱えてもらって飛ぶのが、あたしはホントに大好き。でも、でもね、ここを出て外に行くと、あたしはやっぱり……。ねぇサフィリエル。あたし、ずっとここにいられたらいいのにね」
 ずっとここにいてほしい。だけどここは集積場という名の牢獄。リフェールがここに出入りしていると知られたら、サフィリエルにも、リフェールにも、どんな罰が待っているかわかったものじゃなかった。
 今更、恐れる罰など……
(リフェールと会えなくなる。それ以上に恐ろしい罰などない)
 黙ったままのサフィリエルに、リフェールは自分の言ったことが気に入らなかったのだろうと、目を伏せた。
「ごめんなさい。困らせるつもりじゃないの。あたしがずっといたら、迷惑だものね」
「リフェール、違う」
 サフィリエルは驚いたように言った。
「迷惑だなんて、そんなことはない。ただ、この場所は、本当なら立ち入り禁止のはずだから」
「見つかったら大変?」
「どんな罰を受けるかわからない。少なくとも、今までのようにここに出入りできなくなると思う。だから……」
 サフィリエルの言葉に、リフェールは、なにかを言いたくても言えないような、少し困った顔をした。だが結局、「そうだね」と頷いただけだった。
 サフィリエルは、そんなリフェールを訝るように見やったが、彼もまたそれ以上の追及はせず、四角いケース内部の温度を確認して言った。
「そろそろよさそうだ。開けるよ」
 サフィリエルの指が、開閉ボタンに触れる。
 ブゥン、と短い機械音。空気の抜けるかすかな音。
 透明なケースは、ゆっくりと左右に分かれ、開いていった。
 白い卵。天使の卵。

『約束、したでしょう?』

 どこか遠く、囁くような声が聞こえた気がした。
 白い卵。淡く光る。



   
         
 
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